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【日本とカンボジア】中田厚仁さん殺害から30年、個人的な思い出など

今年の4月8日は、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)で自由公正な選挙の実施のために活動していた中田厚仁さんが殺害されてから、没後30年の命日です。プノンペン都内のウナロム寺にある慰霊碑にお参りしてきました。ここにはカンボジアを訪問した歴代の総理や外務大臣も慰霊に訪れています。碑には「世界市民ここに眠る」と記されています。

このブログを見に来た皆さんならご存知だと思いますが、彼は国連ボランティアとして、国連暫定統治下で行われた1993年の選挙の選挙監視員としてカンボジアに渡りました。プノンペンでトレーニングを受けた後、1992年9月からはコンポントム州プラサットサンボ郡の郡選挙監視員(DES)として赴任し、郡内の村を回り選挙に関する説明や選挙人登録など、選挙実施に向けた活動を行っていましたが、活動中に殺害されました。厚仁さんの意思を継いで、国連ボランティア終身大使になった父親の武仁さんも数年前に亡くなり、月日の経つのをひしひしと感じます。

1992年7月阪口さん撮影の、コンポントムへ向かう中田さん 撮影:阪口直人

事件当時高校生だった私は、まだカンボジアにはおらず、彼と面識はありません。厚仁さんと同じような興味を持っていた当時の私は、厚仁さん殺害の報道に大きな衝撃を受けました。こちらでご紹介するのは、事件の翌年1994年1月7日の朝日新聞です。国連難民高等弁務官事務所でHCR学生ボランティア組織の発起人として活動しており、若者向けの小冊子作成の活動が取り上げられました。この翌月(1994年2月)には人生で初めてカンボジアを訪問し、UNHCRやIFRCの活動に参加することになります。

1994年1月7日朝日新聞夕刊3面


ちなみにこの記事を書いた記者の藤谷健さんは、その後アジア総局長としてバンコクへ赴任し、プノンペンで20年後に再会したのも良い思い出です。

プノンペンでの国連ボランティアの研修中、中田厚仁さんとルームメイトだったのは、後に衆議院議員となる阪口直人さんでした。私も20年以上前に知り合い、今でも親しい友人です。政党で分かれていたカンボジア友好議員連盟を超党派にまとめたり、向井理さんを親善大使にしたりと、その後も彼と協力してカンボジアとの様々な架け橋を作るご縁は続いています。最近では、厚仁さんの人生をクメール語の絵本にして配布を行っています。

アツ学校で絵本を読む子供達
絵本「中田厚仁物語」
1992年プノンペンにて 厚仁さんと阪口さん


中田厚仁さんと一緒に殺害された、カンボジア人の通訳レイ・ソクピエプさんについてはあまり知られていないかもしれません。息子と一緒に殺害された、その通訳のお兄さんを、息子がわりに日本に留学させようと苦慮した武仁さんのお手伝いをさせていただき、1995年にソクピエプさんの兄のレイ・ソックドーさんと知り合いました。ソクピエプさんの実家はノロドム通りより少し川沿いの旧市街、昔ながらのタウンハウスが立ち並ぶ地域にありました。パスポートの発行に配慮をお願いするため、当時外務大臣だったノロドム・シリウッド殿下にお願いに上がったことなどを思い出します。その後、富山の大学に留学したソックドーさんが上京した際には、町田のアンコールトムレストランで食事をして、我が家に泊まって飲んで語り合ったのも良い思い出です。


ちょうど今日2023年4月5日と6日の両日、京都芸術大学・京都国際平和構築センターが主催し、外務省や国連ボランティア計画等が後援する「中田厚仁氏没後30周年記念行事」が開催されています。厚仁さんのルームメイトだった阪口直人元衆議院議員による基調演説の後に、多数の分科会において、多くの参加者によって様々なテーマでの議論が行われます。国連カンボジア暫定統治機構の代表だった明石康元国連事務次長をはじめとし、カンボジアと関わりを持つ多くの方が参加する予定です。

厚仁さんが殺害された場所は、その後開墾され住む人も増え、アツ村と呼ばれるようになりました。多くの日本人支援で、その村にはアツ学校が開校し多くの子供が学び生活しています。

アツ学校

あれから30年、5年に1度の総選挙は今年の7月に7回目が行われます。カンボジアの平和と自由公正な選挙の実施のために命を捧げた中田厚仁さんが今のカンボジアを見たら、どのような感想を持つのでしょうか。カンボジアに関係する日本人の1人として改めて考えてみたいと思います。

最後に厚仁さんの言葉をご紹介します。

「この世の中に誰かがやらなければならない事がある時、僕は、その誰かになりたい。」

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