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「自分らしさ」とは

先日の京王線の切付け放火事件に引き続き、今日も都内では電車内で刃物を持った男が現れ逮捕される。物騒な世の中だ、なんて考えながらコーヒーを飲めるのも束の間で、そもそも自分はこんな物騒な社会を構成する紛れもない一員なのである。

そう、一員である。

仮にこれまで、自分の人生において、誰からも認められず、褒められず、必要とされてこなかったとしたら、他の誰かが決めた規範を遵守することができただろうか。人に恵まれ、少し不満はありながらもいつも誰かが側にいてくれているようなそんな日々は、過去の偶然の連続によって形作られたものである。そう考えると、このような事件は決して他人事ではないように思えてくる。

「自分らしさ」というフレーズの中には、「他者」の存在が必ずある。

辞典には、「自分らしくあること」、「そのままの自分であること」などの文言があったりするが、

現代語訳すると、「他者から見た自分の存在」というものが正しいニュアンスではなかろうか。怠惰で働く意欲のない人間が、生活保護で得た金でパチンコに行くことを「自分らしさ」とすると違和感があるはずである。

このように、他者があっての自分というものは紛れもない「承認欲求」の鱗片なのである。要するに、現代の日本では他人からの承認欲求を満たすために自分を演じることを強いられるような仕組みが既に構成されている。

他者からの"承認"のされ方がたまたま社会のルールに適合しなかったり、そもそも自分を受け入れる余地のない他者(=社会)は自分にとって都合が悪かったりして、人は人を”削除する”行為を偶然引き起こすのである。

最近、"社会"人にとって必要なものは、実は「演技力」なのではないかという気がしている。学生の頃は「コミュニケーション能力」とか「傾聴力」とかそんな言葉を並べたが、社会という他者に受け入れられるよう、自分をいかにいい具合に変化させられるかが問われている。

結論、「自分らしさ」なんて綺麗ごとなワードは隅に置いて、自分で自分を肯定すること、その手段として第三者評価のようなものがある、といった目的と手段の主従関係を常に意識していくことが必要なのかな、なんて思う。


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