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世界の歴史3.1 教皇と皇帝、十字軍

こんばんは!今回は「中世」です。
前に登場したローマ帝国は375年に東西に分裂し、西ローマ帝国は467年にゲルマン民族によって滅亡しました。ここからローマ教皇と諸侯、教会との関係性を中心に動いていく時代が続きました。さらに十字軍の度重なる遠征の失敗によって教皇の権威が失われ、フランスとイギリスの百年戦争によって中世が終わりました。この「中世」のキリスト教側の歴史をの5項で理解しましょう。


フランク王国とカール大帝

476年、西ローマ皇帝ロムルス=アウグストゥスはゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって退位させられ、以後、帝位を継ぐものが出ず、ローマ帝国は滅びた。ゲルマン人は元々ライン川とドナウ川の北方で暮らしていたが、アジアの遊牧民のフン族が侵入してきたためにゲルマン民族の大移動が起こった。ローマ帝国の滅亡に困ったのがカトリック教会。キリスト教団は新しい庇護者を探していた。ゲルマン民族は各地に国を建ててキリスト教を信仰していたが、その中でローマ教皇と特に仲がよかったのがフランク王国であった。キリスト教の中でもフランク王国のみがカトリックを信仰していたからだ。この頃のローマ教皇は、自らをローマ帝国の後継者と主張するビザンツ皇帝との対立に悩んでおり、力をつけていたフランク王国の王カールをローマ帝国の皇帝として戴冠することでその主張を退けた。
カール大帝は学問を奨励し、聖書や宗教書を集めたり、ラテン語の研究をさせたため文化は高まり、カロリング=ルネサンスと呼ばれる。

フランク王国

国々の成立

843年、ヴェルダン条約によってフランク王国は東フランク王国、ロタールの王国、西フランクの3つに分裂し、ロタールが死ぬとメルセン条約(870年)によってロタールの王国は東・西フランクに取り込まれた。これが今のイタリア、ドイツ、フランスの基礎を固めた。

メルセン条約

西フランク王国はその後フランス王国となりカペー家が国王になり340年続いた。一方東フランク王国は911年にカロリング王朝が断絶してオットー一世が王座につき、イタリアにも支配権を広げた。そして962年オットー一世はローマ教皇により戴冠されここに神聖ローマ帝国が成立した。

神聖ローマ帝国


北の海ではヴァイキングとも呼ばれるノルマン人が大移住を始めていた。フランスは彼らに北フランスのロロの土地を与え、ノルマンディー公国が成立。その後、その子孫が1066年にアングロ=サクソン人が治めるイギリスを征服しウィリアム一世としてノルマン朝を打ち立てた。

カノッサの屈辱

962年にローマ皇帝の称号を得たオットー一世は、教会の保護者たるその地位を利用して、国内の諸侯を抑え、中央集権化を図ろうとし、聖職者を任命したり土地や財産の管理にも口を出したが、ローマ教皇にはそれに逆らう力がなかった。10世紀になるとクリュニー修道院を中心に改革派が立ち上がり、クリュニー修道院出身の教皇グレゴリウス7世は1075年、ミラノ大司教の任命を自らが行うと宣言し、ときの皇帝ハインリヒ4世との、教皇と世俗の皇帝という二つの対決が始まった。
教皇は皇帝を破門にすると宣言し、皇帝は教皇を廃位すると宣言。皇帝は世俗のものだが、教皇は神の権威によるものだと認識されたため、教皇を廃位すると宣言した皇帝は教皇に許しを乞う。そして1077年北イタリアのカノッサ城の門前で皇帝が波紋を解いてもらおうと3日間も立ちつずけた。これがのちに「カノッサの屈辱」と呼ばれる。これにより教皇の力が高まり、皇帝の力が弱まったために各地の諸侯が力を強めていき、各地に封建社会が続いた。

十字軍

11世紀後半のヨーロッパでは教皇の権威がとても強く、聖地エルサレムに巡礼する人も多かった。しかしエルサレムはイスラム国家のファーティマ朝に占領されていた。ヨーロッパ全体としてもイスラム勢力が台頭してき始め、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルにもイスラム勢力が迫ってきていた。ビザンツ皇帝はローマ教皇に助けを求め、教皇の呼びかけで十字軍の旗のもとにヨーロッパ中から多くの人々が集まり、結果的にはエルサレムの攻略に成功したが、女子供含むエルサレム市民4万人を殺した。この十字軍の遠征によりエルサレムより北部のアルメニアなどの国々が作られた。それに対してエルサレムを取り戻すため、英雄サラディンの率いるイスラム軍は次々に十字軍の都市を陥落していった。そして1187年エルサレムは無血でイスラム軍に引き渡された。またそれに対して十字軍が起こり合計7回の結成が起こったが、ついにエルサレムを取り戻すことはできず、教皇と教会の権威も失われた。

百年戦争とジャンヌ=ダルク

前述の通り1066年にノルマンディー公ウィリアムがアングロ=サクソン人の治めるイギリスに上陸し、アングロ=ノルマン朝を打ち立てた。その後この王朝は4代で途絶え、1154年にヘンリ2世が即位してプランタジネット朝が始まったが、3代目のジョン欠地王は失策続きであった。これに対して諸侯や市民は裁判の方法や税制について、新しい権利を国王に認めさせた。これが63条からなるマグナ=カルタである。国王の専横を規制した点で画期的であったらが、しばしば国王たちはこれを無視。そこで13世紀には国王と貴族、市民たちの話し合いの場が設定され、これをモデルにして徐々にイギリスの議会制度が形成されていく。
 1328年、フランスのカペー家が断絶すると、イギリス王エドワード3世は市民の抵抗に対する打開策としてフランスの王位継承権を主張し、フランスの産業の利権を得ようとした。そして1399年、ついにイギリスとフランスが戦争を始めた。イギリスは新武器のロングボウにより連勝しフランスの内部へ攻め込んだ。フランスでは長引く戦乱と黒死病の流行で人口の3分の1が死んだと言われている。フランスはイギリス王にフランス王位継承権を認めヘンリー6世がフランスの王となった。しかしフランスのシャルル王太子は抵抗して戦いを続けた。
 そんなフランスの危機を1人の少女が救うことになる。神の声を聞いた少女、ジャンヌ=ダルクによってオルレアンを奪還し戦局はフランス優勢となった。そしてシャルル皇太子はフランスの王となった。しかしジャンヌは戦中にイギリス兵に捕まり、神の名を語ったとして宗教裁判にかけられ、火炙りとなった。ジャンヌの死後も戦争はフランス優勢で進み、百年戦争はイギリスが大陸から追い払われるという結末で終わった。結果的にイギリスは大陸の領土を失い島国となり、フランスは戦争で諸侯たちが大打撃を受け国王の力が強まった。

まとめ

十字軍招集時に教皇は、戦争に参加する人々の罪は許されると宣言したそうだ。その結果キリスト教徒の残虐な行為が許されたとも考えられる。キリスト教の歴史上、教会が最も力を持ったのが中世であろう。政教分離、とよく言われるが、この歴史を見るとそれがよくわかる。人々の信仰心を政治に繁栄することは、結果的に十字軍のように、宗教により権力を握った一部の人による戦争に民衆が巻き込まれることにつながる。



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