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全体個人個人全体(作品に触れる)

作品に触れる際の志向が「個人的なもの」「全体的なもの」に区別できる可能性をひらめいたので少し書いてみる。前提として、これは一つの見方であり、細かいグラデーションを抜きに区別しているので、仮にそういった傾向があったとしても現実に当てはめることはできないと思っている。

私の主な傾向としては、非常に個人的な体験や、それらが影響した個人的な感覚が作品に触れる際のベースとなることが多いと思っている。例えばシャンタルアケルマンの『アンナの出会い』が「孤独」の感覚を表現していて、映画内で起きている出来事とは全くかけ離れた生活を送っていても、私自身が感じている共有不可能な孤独に重ねることができる。その場合、作品と私の距離は無くなり(これを「没入感」と呼んでもよいが)、私は映画の中に存在することになる。この身の重ね方は、自己と作品との関係を崩すことなく、ときには否定され打ちのめされることもありながらも自己であり続けるイメージである。
こうした鑑賞体験は映画に限らず、小説や漫画、たまに音楽でも起こりうることで、そうした作品の特徴は、感情の根元にある感覚(感覚の表出が感情であるとする)があるかどうかである。こうした感覚は固有のものであるため、代替不可能でありながらも、ときには作家性などの技術的なスタイルを通して作品が表現としてできあがる。そうした作品に私は惹かれる。

一方でエンタメ作品の多くが一般化された感情、共有可能なもの、共感できるようなものである。私の好きなジャンプ漫画も、最近みた『スキップとローファー』や『王様ランキング』といった人気アニメなども、表現されているのは「私たちの何か」であり、それは私固有の青春でも憧れでもなく、また感情が揺さぶられ涙を流すことや胸が熱くなり興奮することはあっても私の根源的な感覚に届くことない。
作品が「全体的なもの」であることで鑑賞者は多くの観客/作品と自分を同化させることができ、それによって所属しているという安心感を得る。というのはだいぶ飛躍した見方だが、私自身韓国アイドルを推していた頃に「ファンと一緒に盛り上がること」が楽しく、感情が伝播する高揚感を求めていたことや、アイドルとアイドルを囲むファンといった環境に居心地の良さを感じていたこともあり、あながち間違いではないのだと思う。つまり、ここでの自己は全体に希釈された自己であり、「私」は全体の一部分としての「私」であることが多い。

簡単にまとめると
「個人的なもの」には感覚的なエッセンスを通して鑑賞者の固有の何かに訴えかけるものであり、そういった作品は鑑賞者に対して固有の体験を生むため、共有不可能である。作品と自己は重なり、作品に触れることは自己に触れることになる。
「全体的なもの」には一般化された感情や共有可能な感情をエッセンスとして鑑賞者の感情を揺さぶるもので、そこには自己から離れて作品やその周辺である観客に同化しにいくような積極的な姿勢がある。

どちらに優劣があるかではなく、それぞれに異なる作品の触れ方があり、異なる性質(ここでは自己と作品が同化する際の自己の保ち方が異なるとしてる)があるといったことを、私の鑑賞体験から考えてみたのであり、私はどちらの作品も好きなのである。もちろん傾向としては「個人的なもの」に触れることが多いが、、!なぜそういった傾向があるかを自分の中で少し整理できたのであとは文章のつながりなどを少しずつ修正できればと思う。


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