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日本の教育を変えたい

「数学ができるけど英語が苦手でこのままだど卒業できない、どうしよう。」

 高3の秋、友人Aはこうした相談をしてきた。彼は数学ができる。中学で数学オリンピック全国大会に出場し、高1のとき数研準1級、高2のとき数研1級に合格した。もちろんテストはいつも満点。高1の時から登下校時に歩きながら東大の物理の問題を解くという変態だ。

 しかしなぜか英語は全くできなかった。高3になっても英検5級に受からないばかりか赤点を繰り返しとるので進級までもが危ぶまれた。彼は毎度のように英語の補修に連れていかれ、さらには学校の先生に「そんなに数学ができるなら数学やらなくていい。その時間を英語に費やせ。」と言われた。英語に悪戦苦闘している彼を見ているうちにこんな疑問を持った。

「どうして彼に数学をやらせないのだろう?彼の才能をつぶしていないか?」

5教科まんべんなく勉強させることは正しいことなのか


 日本の教育では全科目まんべんなくできる人が優秀な人であるとされる。例えば数学だけできる人よりも国数英理社5教科できる人の方が重宝される。学校では得意科目を伸ばすよりも苦手を克服しなさいと教わる。

 しかし世の中には、Aのように特定の分野に特化した人間がいる。AのようにBe動詞が理解できなくても微分方程式を解いている人だっているし、1次関数が理解できなくても国連のスピーチを英語で聞き取れる人だっている。こうした人に対しても、学校は得意科目よりも苦手科目を克服しろと指導してくる。さらにはどんなにほかの科目が優れていても赤点をとれば進級・卒業できない。果たしてこの行いは正しいことなのだろうか?

 Aのようにどんなに数学ができても英語で赤点を取れば卒業できない。そのため学校は補習を行い苦手科目を克服しようとする。しかしその時間を数学の勉強に充てることができれば彼の才能は開花するのではないか。

 アインシュタインは数学の才能が優れていたことは誰もが認めることだが、読み書きができなかった。恐らく日本の高校に進学していたら国語や英語で赤点を取り、卒業できなかっただろう。

 学校の教育だと、まんべんなくこなせる「器用貧乏」な人材が育成される。しかし、社会を発展させたのはアインシュタインやスティーブジョブズといった、特定の能力に秀でているがその他のことが全くできないような人だ。今の日本の教育だと彼らの才能をつぶしてしまう。

 なぜ学校では5教科まんべんなく勉強させるのだろうか。わかる人がいればぜひコメントを書いてほしい。

 なぜ入試で大学に入ってから一度も使ってない知識を問われ、逆に大学に入ってから必要な知識は問われないのか


 多くの大学の法学部では古文が必須だが、政治経済は選択科目であることが多い。例えば中央大学法学部では古文は必須だが日本史や世界史・政治経済などの中から1科目選択する。つまり、中央大学法学部政治学科の入試で政治経済を使わないことができる。

 ここで一つ疑問が浮かぶ。なぜ大学に入ってから必須な政治経済が選択科目で、大学に入ってから使うことがほぼないだろう古文(私は大学に入ってから1ども古文を使っていないが入試になぜかあった)が必須なのだろうか?

 私は現在法学部政治学科の大学生だが、高校の政治経済の知識がない人(例えば今の日本の総理大臣がわからない人がいる。その人は世界史選択だったが)がいる。一方で彼は古文が得意だったらしく今塾で古文を教えるアルバイトをしているらしい。

 私の認識だと、大学入試の目的は「大学に入ってからやっていけるだけの学力があるか確認するための試験」なのだが、なぜ、大学に入ってから必要な政治経済は問われなくて逆に大学に入ってから使わない古文の知識は必要なのか。私の認識が間違っていたのだろうか。

 経済学は数学を使うのに経済学部の入試で数学が問われず、大学に入ってから学生が苦労しているとニュースで見た。このように大学入試では大学に入ってから必要な教科が課されず、逆に大学に入ったら使わない教科が課される。これに関して私は納得した理由を聞いたことがない。

まとめ

ここでの議論をまとめると次のようになる。

  • なぜ日本ではアインシュタインのような特定の能力が特化した人にも5教科まんべんなく教えるのだろうか。

  • なぜ法学部の入試で大学に入ってから使う「政治経済」は選択科目で大学に入ってから一度も使わない「古文」が必修科目なのだろうか。

これらの疑問に答えられる方がいればぜひ教えてほしい。

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