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詩とそれにまつわる話(自分で死ぬということ)

西から東へ
焦る気持ち
はやる気持ち
忘れずにね
太陽は沈んでいくとき
全ての音を連れて行ってくれる
飛び込んだあの人は
連れ去って欲しかったのだろう
責めないであげて
差し伸べてあげて
「電車が遅れまして申し訳ありません」
貴女のせいではない
もうすぐ
夜が明ける
世道に照らす
光の矢を
欲しがったことに罪はないのに

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「人身事故のため電車が遅れております。お急ぎのところ大変申し訳ございません。」このアナウンスを聞くと、ドキドキする。どこかで悪いことが起こってしまったのだ、と、その場所に思いを馳せる。人身事故だからって、自殺とは限らないけれど、そういう場合は多いのだと思うし、イメージが強烈だからすぐにそれを思い浮かべてしまう。現場にいた本人、見ていた人、運転していた人、電車に乗っていた人、乗ろうとしていた人、そしてそこから派生した電車の遅れを、見ている人聞いている人、対応している駅員さんたち。
9/1は自殺防止デー。学校では新しい学期が始まって、夏休みが終わって学校が再開して、学校に行くことが怖くていけない人がいる。その人たちを守るために、いつでも相談に乗ってくれる電話番号が書かれた、"心のカード"みたいなのも配られる。それってどれほど役に立っているのか分からないけれど。
謝る駅員さんたちを見て、「あなたが悪いわけではないのに」と思う。苛立つ人々を見て、そりゃ待ち合わせに遅れそうとか、何か用事があるのかも知れないけどさあ、しょうがないじゃん。誰が悪いわけでもないんだから。
せめて死ぬなら人に迷惑がかからないように死んでよ。なんていう心無い言葉も聞こえてくるかもしれない。死ぬまで誰かに迷惑かけるなんて、死んだ方がマシだ

太刀打ちできない。そんな言葉には。そんなこと言う人が殺人犯だと思う。見えない力で、人をこの世から抹殺している。

知り合いに、自殺を試みた人がいた。
もしかしたら私の知らないうちに、そういうことをしようとしている人は、身近にもいるかも知れない。でもその人は、紛れもなく私の知り合いで、世の中に報道されるにも至った。報道されてから、私はその事実を知った。
あらぬ噂が立つ、私が直接見たことでもないし聞いたことでもないから、それらは全て噂だ。誰が苦しめた、その人を追い込んだ。私の身近な人だ。私の身近な人に非がある。見てみぬ人を含むのなら、それは私もだ。私の責任は、どこまで問われるんだろう。

小学校6年生の時にいじめがあった。クラスの男の子グループの話だった。女の私はあまり内容を知らないうちに、事がどんどん大きくなって、そのうち校長先生や教頭先生が出てきて、担任の先生は泣いてしまって、その子は学校に来たのか来なかったのか、姿を見ない日が多くなった。担任の先生は、私はとても良い人だったと思う。「私のことは嫌いになっても、このクラスのことは嫌いにならないでください。」学期の初めにそう言っていたのを覚えている。ちょうど、AKB48のあっちゃんが卒業する時期で、「私のことは嫌いになっても、AKB48のことは嫌いにならないでください。」という名言を登場させた時だった。
先生はその言葉通り、どれだけ生徒に嫌われても、いつでも真実を求めて色んな生徒に声かけをした。毎日のように道徳の時間が設けられ、いじめについて、現在の状況について、どうしたら良いかを生徒たちに問い続けた。彼女なりの正義だった。彼女なりの正義を、学期の最後まで貫き通すことをやめなかった。
結局いじめは解決しなかった。そもそも、いじめってどこをもって解決というのだろう。少なくとも、いじめられた生徒といじめた生徒は、仲良くなることはなかった。そのまま卒業式を迎え、生徒たちは卒業していった。
私は傍観者だった。どこの立ち居位置かと言われたら、被害者でも加害者でもない、傍観者であった。でも、傍観者も加害者だと思った。かといって、どうしようもなかった。
ある子は、ある日教室の窓から飛び降りようとした生徒を、身をもって助けた。男子生徒の着替え時間の話だった。
小学生のいじめだが、どこか域を超えている、そして、助けた方の正義には、今でも敬意を払う。私と同じマンションに住んでいる子だった。その子は私のことをどう見ていただろう。傍観者であった私のこと。

何もできないことが、無力なことが、私自身を悩ませた。こんなクラスはおかしい、こんなことは辞めよう、と言っても、どうしようもなかった。何か暴力を振るうとか、物を隠すとか落書きをするとか、目に見えるいじめではなかったのも、対応することが難しかった。もしかしたら最初の方はあったのかも知れない。けれど、どこか、その子を見る目がみんな違っていて、言いも知れぬ嫌な感じの雰囲気が漂っている、そんな日々が多かった。

自分以外の誰かが放った言葉や態度が、些細なものでも人を傷つける可能性があることを知っている。嫌な言葉や思い出は、ナイフのようになって何度でも私の心を切り裂く。何度も何度も、夢の中やふとした瞬間に思い出して、勝手に傷ついている。
どこまで相手の責任を問えるのだろう。そもそも、自分が傷つきやすいのが悪いのだろうか。

成人式の日、担任の先生の姿は見えなかった。いじめられていた生徒たちの姿も見えなかった。「私が犯してしまった過ちを、償うことはできない。合わせる顔がない。」そういう内容の手紙が、先生から生徒全員に送られた。

先生は、まだ傷ついているのかな。心の底にぐちぐちとした、中々治らない傷を負っているのかな。それはかさぶたみたいに、何度も覆われては固くなって、新しい皮膚ができる過程のものであればいいのだけど。
いじめられていた男の子たちは、今どこで何をしているのだろう。生きているかな。切り刻まれた彼らの心は、良い方に回復していっただろうか。それともまだ、ナイフが刺さったままなのだろうか。


1日が終わりに向かう瞬間。太陽が一層の光を届けてくれて、今日1日のことを地平線の向こうへと連れて行く。
飛び込んだ人は、連れていって欲しかったのかな、と思う。一緒に光の向こうへ、連れていって欲しかったのかも知れない。この世界の嫌な部分をたくさん見て、光が差してる方向はそこしかないと思ったのかも知れない。

これから生きていく中で、私がこの世界にできることはなんだろう。こんな世界にできることはなんだろう。



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