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価値観が合わない上司とのコミュニケーションは瞑想や演劇のように

誰にでも相性が良くない相手というのはいる。
そんな人は相手にしなくてよい、付き合わなくともよい、という指南をよく見かける。

だがそれが仕事の上司であった場合にはそうもいかない。
人としての性根の部分の価値観の違いはもうどうしようも無い。もう一回生まれ変わらないと無理なものがあると思う。

話しても話が通じ合わないから、もう必要最低限の絡みでと試みてはいるが、その最低限の絡みの中ですら全く合わない。
時々『もしかして私が話している言語は向こうが知らない言語なのか?』とすら思うぐらいに話が通じない。多分向こうもそう思っているであろう。

夫婦関係で"価値観の違い"が我慢出来なくなれば離婚するが、職場の場合は、上司が部下をとばすか部下が会社を辞めるか。
どちらであれ結局優位にたってるのは上司なわけで、どちらにしても部下が損をする。

パワハラなどであれば上司に制裁が下ることもあろうが、人として性根の部分の価値観の違いは圧倒的に上司の立場が優位である。
部下は耐えて泣き寝入りするしかない。これが権力を持つ人と持たない人の現実なのであろう。

このように、価値観の違いで離婚したいが出来ず家庭内別居状態の夫婦のような上司部下。
どうしたものか…と悩んでいたところ、家庭内別居してる夫婦を真似てみては?と思った。

・その人と共有する時と空間に感情を存在させない
・その人と会話する時は物事を発展させない言葉を使う。その場で終わるよう「はい」「いいえ」「そうですね」「すみませんでした、以後気をつけます」だけで構成するように
・その人の人間としての存在を自分の世界から消す。机とかと同様に無機物だと思う

人から聞いたイメージだとこんな感じだろうか?
書いていて気付いたが、これは瞑想に似ている。

瞑想で『無になる』は、頭に浮かんだことをそのままにしておく、浮かんだことにとらわれないということ。

瞑想中に過去のムカつくことが頭に浮かんだとしても、それに対して感情を発生させずただそれを眺める。
「あぁ、ムカつくことが思い浮かんできたなぁ〜」ってな感じで。

仕事で上司を目の前にしたり、理不尽なことを言われた場合も、この方法がいいのかもしれない。

そこに存在している上司をただ眺める。
「あぁ、何かしゃべっている上司がいるなぁ〜」ってな具合に。

これを試みたとしても、自分が理不尽な仕打ちをうけて我慢させられてることに納得いかなくなる時もあるかもしれない。

そんな時の次の手段として『今私は"上司に理不尽な事を言われて我慢している会社員"の役を演じさせられているんだ』と思い込んで、その役を演じきってみる。

上司と話す時間も嫌な気持ち満載なのに、毎日毎日「また上司と話すのか、嫌だな…」と思って更に嫌な気持ちで過ごす時間が増えるのであれば、「明日も"かわいそうな会社員A"の役を演じる時間があるな」と思ってた方が、幾分気持ちが楽な気がする。

こんなコミュニケーションで職場で仕事が成立するのか?と思うが、自分の事を守ることに精一杯な上司がいる職場はこれでもやっていける。
"仕事の本質"とか、"会社や仕事や部下がより良くなるように"とか考えて無いから、こんな不十分コミュニケーションでも職場として表面上は成立する。

『より良い仕事』より『より良い己』なんだろうな。
それが向こうの正義なのであろう。


まだ離婚するまでの決心がつかず、家庭内別居を続けるなら、どうやって日々やり過ごすか対策を講じていくしかない。

それと同時に、本当にこのまま家庭内別居を続けるのかどうか自分と相談しなくてはいけないとも思う。

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