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経済学的思考と平等〜選択的夫婦別姓と無痛分娩〜

人には人の思考の癖やパターンがある。あの人はああ言ってるが私はこう思うとか。学問にも例えば社会学はこうで法学はこうで、科学はこうでと色々な思考やパターンがある。では、経済学はどうであろうか?私は経済学的なものの見方は結構好きだ。だから、経済学の思考の癖で物事を考えるのも結構楽しい

経済学と言えば、市場とか競争とかGDPとか物価とか円安とかその他云々と日々ニュースで垂れ流されてるので耳にする機会も多い。でも根本を見れば、個人の幸せについて語られている。経済学では幸せのことを効用と呼び、この効用を最大化するにはどうすれば良いのか必死に考える。でも不思議なのはいくら経済学の本を隅から隅まで探してみたところで、幸せって何だ?って質問には答えられないところ。経済学は幸せ=効用とし、量的に換算して最大化する事にしたんだろう。個々人の幸せは主観的であり比べることは難しいけど、定量的にしてしまえば比べるのも簡単だ。効用が増えれば増えるほど幸せなのだ。

経済学は個人が自分の利益を追求し市場という場で取引をする。市場は価格変動によって、世の中の資源が最適に配分されるとされる。いわゆるアダムスミスの「神の見えざる手」だ。夕方以降のスーパーの惣菜コーナーに行ってみるといい。人気のある惣菜はもう売り切れているかもしれない。そこには朝から置かれた人気のない惣菜たちと割引と書かれたシールを持っている店員、今か今かと待ち望む客の姿が目に入る。店員は人気のない惣菜たちに20%引きのシールを貼っていく。この時点でいくつかの商品は売れて行くだろう。それでもまだ夜まで残る人気のない惣菜があるかもしれない。お客さんも少なくなってきた閉店間際のスーパーでは、半額シールを付けた惣菜たちが寂しそうに並んでいる。定価では売れなかった惣菜たちも、ようやく買って貰える。価格の変化が需要量に変化を与えてるのだ。最終的に価格は適正となり、買い手も売り手もwin-winとなる。シールを持っている店員さんは神の見えざる手の可視化である。

経済学者は市場原理主義と言われる。でも市場ができるのは効率的に資源を配分することだけだ。万能ではない。市場はしばしば失敗を犯し、政府が介入しなければならない。でも経済学はこの政府の介入は嫌いだ。出来れば市場に全部任せておきたい。それが一番効率が良いと思ってるから。

経済学は個人の幸せについて考えていると冒頭でお伝えした。でも幸せが何なのかわからないという事も。経済学の伝統的な考え方に「パレート改善的」というものがある。世の中の誰もが損をせず誰かひとりでも得をした人がいるなら、世の中happyになったよねという考え方だ。誰がいくら儲けようが関係がない。貧乏人が貧乏なままで、金持ちだけが更に金持ちになっても良しとしている。この考え方が、一部から嫌われる要因かもしれない。でも私は結構経済学の思考のパターンは好きだ。断っておくけど、私はどちらかと言うと貧乏人だ。

こう言った話を考えていると思い出すあるフレーズがある。「最大多数の最大幸福」。功利主義と呼ばれるベンサムの言葉だ。簡単に説明すると、快楽や幸福をもたらす行為が善であり、幸福=効用なので、効用を最大化する事こそが正しいと言う事。

経済学は二つの思考の軸がある。効率と公平である。経済学のイメージはどちらかと言うと効率性にあると思う。私も経済学の思考の好きな点は効率性の美しさだと思う。

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