映画感想 アンダーカレント
劇場で11月末にこの映画を鑑賞した。
すごく好きな映画だなと思ったが、いつもながらうまく言語化できず、もやもやしていたところだった。
連続企業爆破事件で指名手配されていた桐島聡容疑者が、49年にわたる逃亡の末、末期癌で瀕死の状態で「自分は桐島聡だ」と名乗り出た。
列島に衝撃が走ったこのニュース。
私の脳内で、このニュースと映画「アンダーカレント」がリンクした。
人を解るって、どういうことなのだろう。
かなえ(真木よう子)は実家の銭湯を継ぎ、夫の悟(永山瑛太)と切り盛りしていた。
幸せな日々が途切れたのは、夫の突然の失踪だった。
夫は失踪の理由も告げず、かなえにも思い当たる節がない。
いままでとなりで過ごしていた夫は、何を考えていたのか。
途方に暮れながらも銭湯を再開させたかなえのもとに、銭湯組合からの紹介で、銭湯で働きたいという男性が現れた。堀(井浦新)と名乗るその男は、黙々と働き、かなえと共同生活を送る。堀はいったいどこから来たのか。
そして、かなえ自身は何を考えて、どうやって生きてきたのか。
「他者」という、完全には理解することのできない対象を想うとき、同時に私たちは「自己」という存在の曖昧さを思い知る。
自分が捉えていた他者の形が真実とかけ離れていた時、「自分が信じていた姿」をどこまで信じられるだろう。
企業連続爆破事件の指名手配犯、桐島は、「内田」という名で、全くの他人となって49年間も潜伏生活をしていたという。数十年にわたり藤沢市内の工務店に勤務し、社会生活をこなし、他者と関わって生きてきたのである。きっと、おはようございます、お疲れ様でした、今日は寒いですね、なんて世間話を周囲の人と交わしていたかもしれない。
数十年、同僚として過ごしてきた方々の印象は、きっと「まさか」なのだろう。
まさか、隣にいたあの人が、指名手配犯だったなんて。
非常に極端な例ではあるが、「人のことを解る」というのは、淡々と進んでいく日々において、とても難しいことなのだと思う。
まさか、という衝撃は、少なからず相手を理解していた、という気持ちがあって生まれる感情である。
ただ日常の切りとりを共有していただけでも、どこか私たちは「少しは解かる」という感覚に陥る。
しかしながら、他人の心の底に漂う揺らぎなど、どうしたって解かりようがないのだ。
厄介なことに、自分という人間すら、根底から理解することなどできない。
解かり合うことができないのを前提に、それでも人と関わるのが人生だ。
ある種、どうしようもない孤独と、空虚感を思い知らされる映画である。
しかしながら、ラストのかなえと堀が向き合うシーンにおいては、「少しは解かり合えた」という感覚を、観客も共有できたのではないか。
少なくとも私はそこに共感でき、救われた思いがした。
本当に解かり合えたかどうかはさておき、ふわっと感情を交換し合えた瞬間。
人をわかる、ってどういうことか。
それは絶望的な難題で、下手したら一生涯で誰とも解かり合えずに死ぬのかもしれない。自分自身さえも解からずに。
では、すべてを解かり合うことができないのなら、せめて。
ふわっとした感情でいいから、お互いの輪郭をとらえ合って、確かめ合いたいと思う。
言葉が嘘を孕んでいたとしても、すべてが嘘ではないのなら。
解り合うことを、諦めたくはない。
ちょっと暗い感想になってしまったけれども。
真木よう子さんと井浦新さんが、冷静に考えるとものすごい美男美女なのにもかかわらず、演技力が高いために、どこにでもいる男女に見えてしまう。それもすごい。
難解なテーマを扱っているとは思うが、どこか救いのある映画だと思う。