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家事分担から、お互いをわかりあう


家事というのは不思議なものだ。
どの世帯でもしていること。
それにもかかわらず、なぜか絶対のフォーマットが存在しない。

「うちはこうしている」とか、「俺はこのやり方がいい」とか、それぞれに細かいこだわりがあり、他人と共有するのが難しい。
靴下の干し方ひとつとっても、足首側をピンチではさむとゴムが伸びるから嫌、という人もいれば、つま先側をピンチで挟むとピンチの跡がつくから嫌、という人もいる。

どちらも間違ってはいない。
ここで選択肢はいくつか出てくるだろう。
どちらかが折れて干し方を統一するなり、それぞれで靴下の留め方を変えるなり、そもそも洗濯をそれぞれ別にするなり。
このように、靴下の干し方だけでも、色々方法が出てくる。

相手に寄せるのか。
もしくは折衷案が出るまで話し合うのか。
お互い好きにするのか。
家事は、ささやかな認識のズレを感じあってしまうことが多い。ここで意見をすり合わせられるかどうか、そこが大切なのだ。


パートナーと同棲を始めるときに、彼なりの決まり事がたくさんあることを知った。
彼は、それを「こうしてほしい」と伝えてくれ、その理由も説明してくれる。
私にも少ないながらこだわりはあるので、それは説明をすることにしている。
わたしたちはどちらかというと、じゃあそれぞれ別々で自分のことをやろう、というスタンスよりは、相手の好みを知って動く、というスタンスに近いと思う。

私よりも彼はとてもキチンとしているので、その決まりごとの細かさに驚くことも多いし、それに合わせることばかりに気を遣っていると、自分もストレスが溜まるのだろうなと思うので、合わせられる範囲で合わせようと思っている。

でも私は、その決まり事を知ることや、共有することが、わりと好きである。

生活を形づくる終わりのない営み、家事。その小さなタスクの積み重ねを共有していると、「一緒に暮らしている」感じが増してくる。

生まれた場所も、育ってきた環境も、価値観も、気が合うとは思うけれど、完全一致することなどないのだから、小さな価値観の違いは、星の数ほどあるのだろう。

パートナーとの間で、「自分とはここが違う」と知ることが、昔は少し怖かった。
ぴったりくっついていたものに、小さな隙間が生まれて、それが広がっていくみたいで。
とても遠く離れてしまう気がして、見て見ないふりをしたり、誤魔化したりした。

でも、最近は違いを知ることが怖くなくなった。
むしろ、「相手のことをまた一つ知ることができた」と思えるようになったからだ。

小さな価値観の違いを知るたびに、私という個と、彼という個がいることを知る。

全く別の個が、一緒に生活している。
それぞれ一人で暮らすのではなく、あえて一緒に暮らしている。

解かり合う難しさにフォーカスするのではなくて、一緒に暮らす尊さに意識を向けたとき、「違い」は相手を理解する糸口なのだと知る。

家事のささいなこだわりの違いも含めて。
小さな違いを分け合って、一緒に暮らす。
それは、理解し合うことの本質なのだろうと思う。

冷蔵庫のマヨネーズの残がどれくらいあったかな?なんて、たわいもない必要な情報。
そんなことを共有できる相手がいることは、実はとてもうれしいことだ。

だから、マヨネーズが切れていたとして、尋ねなくても相手の好みの銘柄を買って帰ることができるようになりたい。
「あ、いいね」と言って、少し笑ってほしいから。

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