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メジャーにトレーナーとして渡米。有名選手との出会い、旧友との別れ。

メジャーに移籍した新庄選手から突然の電話

「熊原さん アメリカに来れる?」
「阪神との契約があるから行けないよ」

念願の阪神のトレ―ナーになって10年目の2000年。二ューヨーク・メッツに移籍した新庄(剛志)選手から突然、電話がありました。彼とは旧知の間柄でした。新庄選手は、阪神の5年12億円の条件を蹴って、渡米していました。

一度はアメリカ行きの誘いを断ったものの、メジャーでトレーナーをしている自分の映像が浮かんできました。メジャーリーグか・・・。

ある程度、プロ野球のことも分かってきて、新しい環境やメジャーも見てみたいと思っている時の電話でした。人生の扉をノックされたように感じました。

よし、一度しかない人生、ワクワクする未来にかけてみよう。慣れ親しんだ日本球界を離れて新しい環境でチャレンジする決意を固めました。
新庄選手から2度めの誘いがあり、12月のハワイでの自主トレから渡米しました。

私が37歳のときに、パーソナルトレーナーとして、新庄選手の会社の社員という形で入社しました。

妻は、自分の夢だったCA(キャビンアテンダント)になって5年目で、子どもが一歳半。内心はえっーと思ったかも知れないけど、この決断を応援してくれて、ついてきてくれました。本当にありがたかったです。

パーソナルの条件の壁に苦労した新生活

さあ、メジャーでトレーナーとして活躍してやるぞ。心躍らせて渡米した私の前にいきなり厳しい現実が突きつけられました。

サンフランシスコ・ジャイアンツと新庄選手の代理人の間に、パーソナルトレーナーに関する契約がなかったのです。通常だと新庄選手がチームと契約する時に、彼の代理人が交渉します。

今度パーソナルトレーナーが入るから、チャーター機は一緒に乗せてくれとか、宿泊も一緒にとか言うんですが、そういうのが一つもない。
あくまで新庄選手個人のパーソナルトレーナーという位置付けで、チームからはなんのサポートもしてもらえませんでした。

英語は話せないのにビザも取ってもらえない、住宅も自分で手配する、遠征用のチャーター機には乗せてもらえない、チームのトレーナールームに入ることすらできません。新庄選手は、自身の契約のことや私のことも、あまり詳細については把握していなかったんじゃないのかな。

だから私は観光ビザで、3カ月に1回アメリカに入ったり帰ったり・・・税関の人から「なんでお前は、しょっちゅう行ったり来たりしているんだ」と、怪しまれました。2001年9月の同時多発テロ後の緊迫した状況で、外国人に対しては非常にナーバス。けっこうしつこくボディチェックをされました。

新庄選手が(遠征に)ついてきてくれという時は同行し、今回は大丈夫、という時は、家にいたのかな。経費の関係もあったんだろうけど、私も生活するのに、「いっぱい、いっぱい」で不安でした。
勢いだけで渡米したことを失敗したかなと思った瞬間もありましたが、今できることをやるしかない。プラス思考で頑張りました。

例えば、新庄選手のコンディショニング。トレーナールームに入れないので、いろんな治療をやるのは、乾燥機や洗濯機のあるでっかいコインランドリー。そこにスペースを作ってやったんです。遠征の時は、折りたたみのベッドをもって、自分で手配した飛行機で同行しました。
トレーナー用のハサミを持っているので、これはなんだと空港でチェックを受けるなどいろいろ大変でした。

アメリカ生活で肝心の英会話は、指差し会話帳頼み。あれを一冊持って、丸覚えをしました。やり取りがむつかしくなっても気合いで何とか乗り切りました。そうやってコミュニケーションを繰り返していくうちに、最後の方はある程度聞き取れて、意思疎通ができるようになりました。

最強の打者バリー・ボンズとの出会いが転機に

新庄選手が移籍したジャイアンツには、歴代最多(当時)の本塁打者バリー・ボンズがいました。自己主張が強く、孤立しがちなボンズは、なぜか新庄選手とは相性が良く親交もありました。仲の良いエピソードが、メディアで話題になったこともありました。

そのボンズから、「膝が痛いので、針を受けたいから、お前ちょっと来てくれ」と。

ヘッドトレーナー経由でしたが、大物直々のご指名でした。どんな治療をしたかは内々ですが、ボンズはやっぱり凄いパワーがあって、筋肉が違うんですよ。ヘッドスピードとか、軸の回転とか、瞬発力がすごいなと、驚きました。

その後、何回か針治療をして良くなり、「トレーナールームに入っていいよ!」と言われました。すごく嬉しかったですね。私の施術法やケアが認められたようでした。

遠征先のホテルでは、新庄選手の治療の後、針のリクエストがけっこうありました。選手からよく電話が掛かってきて、ちょっと診てくれないか、との依頼でした。みんな施術を喜んでくれて、けっこうなチップをもらえて、確かな手応えを感じるようになりました。

ボンズからのサプライズ

ある時、ボンズから私に感動のサプライズがありました。なんと自宅への招待でした。

一番の理由は膝が良くなり、喜んでくれたこと。すごく感激しました。ボンズ選手の家への招待はめったにないそうで、シスコから車で30分行った、セカンドハウスでした。

石造りで大きな一軒家。豪華な料理で接待してもらい、「To Kuma thanks」のサイン入りのバッドやボ―ルをプレゼントされて・・・ボンズが私のために書いてくれたもので、いまは我が家の「お宝」にしています。思い出とともに、大切に!

ボンズは私のトレーナーとしての飛躍をサポートしてくれ、さらに関係が深まりました。

その一番の理由は、日本の技術の高さを、評価してくれたことだと思います。新しい出会いが、私には刺激になりました。人の輪や仕事の幅が、確実に広がっていくのが実感できました。なんだか「自立」という言葉が、身近に感じられました。

日米野球でメジャーのチームトレーナーに

2002年11月、日本で開催された日米野球に、メジャーのチームトレーナーとして帯同しました。イチロー選手が、メジャ―の代表で参加したのも話題でした。

私が帯同したのは、バリー・ボンズから「ついてくれ」って言われたからです。

その時、新庄選手と契約していたので、「(ボンズに)こう言われたんだけど」と聞いたら、「いいよ」って言うので、アメリカのチームに入ることになりました。このおおらかさは新庄選手の器の大きさですね。

メジャーのチームトレーナーは、素直に嬉しかったですね。東京や大阪、福岡、札幌を帯同して、ホテルも全部一緒。当然メジャーのそうそうたるメンバーも、同じホテルでしたから。

夜になると、「ちょっと診てくれ」と電話がかかってきて。メジャーではあんまりやっていなかったトリートメントを(手や機械を使って、マッサージをしながら体のケアをする施術)。日本の技術って、勝負になるって本当に実感しました。

球場では選手をベンチ裏で見ていました。ストレッチなどの様子が見えるからです。アメリカのトレーナーは、超音波とかMD(メディカルディスチャージ法)でストレッチをするけど、私たちは選手の筋肉の中がどうなっているか、自分の手を使ってセンサーのように探っていきます。筋肉の奥に変な硬さがあったら、しっかりと取ってあげる。そうしないと後々、怪我のリスクに繋がるからです。

だから選手に、ここが張っているから気をつけてとか、特にこの動きはちょっと注意してねと言える。選手の状態を分かっているから、細かいアドバイスとリスクマネジメントができる。出会いが交流になり、自分のスキルへの評価が自信につながりました。

アメリカチーム全員のサインが入った記念のボールをもらいました。

日米野球の経験で、日本の技術の高さを実感し、トレーナーとしての今後のビジョンを持つことができました。
ただ、結論を出さなければならないこともありました。

新庄選手と離れ自立の道を模索

新庄選手に乞われて家族と渡米したものの、肩書はパーソナルトレーナー。あくまで彼の専属トレーナーで、条件面では最後までほとんど改善されませんでした。

その間、バリー・ボンズとの出会いや、日米野球のメジャートレーナーを仰せつかったり、メジャーの一流選手からの指名も増えました。とくにボンズには大変お世話になり、トレーナーとしての評価や知名度、仕事の幅も広がりました。

中にはストレートに、「俺についてくれ」と、ある選手に言われたこともありましたが、新庄選手と契約中を理由に断りました。

現地に残るという選択肢もありましたが、ビザのことなどいろいろあって、あとは、嫁さんが大変そうだったのもあります・・・。やっぱり生活があるし、経済的な基盤というか、足掛かりがなかったしね。

契約(条件)問題も好転しない。新庄選手とは疎遠になったというか、少しずつ考え方が離れたというか。思いはいろいろあるけれど、私はもう日本に帰るっていう決断をしたので、最後はあんまりいい関係では終わっていないですね。

ただ、アメリカでの生活で勉強になったことは、異文化で暮らせたこと。いろいろな経験をして、頑張ればなんとかなるということ。それに何回か話しているけど、治療のトリートメントの技術の高さや、将来への視野が広がりました。

手がセンサーになる施術でKumaharaワ―ルドを

アメリカでの1年半の体験を活かした事業の着想と、それを支える「手がセンサ―」の施術法。その時、38歳の私は、新しい展開に胸を膨らませていました。

手がセンサーになって、筋繊維の一本一本のおかしいところがわかる。宮大工が、コンマ何ミリのきめ細かさを追求するように。治療で言えば、手の凹凸に指がついていくような感じです。

そんな精度の高い技術で若い子を育て、海外進出も視野に入れて、トレーナーとしての拠点づくりを考えていました。

治療のコンセプトは、「一般の方にもアスリートが受けるクオリティを提供を提供する」

私は、これまでの経験をバネに、多様なプランを具体化するために、アクティブになっていました。2003年、帰国してからの挑戦が動き出しました。

次回は、埼玉県入間市にくまはら接骨院開業を軸にお伝えします。

続く

熊原 稔(Minoru kumahara)

経歴・実績
1993 ~2002年:阪神タイガーストレーナー
2002年:サンフランシスコジャイアンツ新庄剛志選手専属トレーナー
2002年:日米野球メジャーチームトレーナー
2003年:くまはら接骨院開業
2008年:株式会社クマハラアスリートサポート設立
2010~2014年:東北楽天イーグルスコンディションディレクターとして優勝に貢献 WBC・侍ジャパン日本代表のトレーナーとして帯同

文/熊原 稔 編集協力/頼母木俊輔


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