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一本の公衆電話が人生の転機に。プロ野球のトレーナー→新庄さんのメジャー挑戦に帯同→整体を開業

甲子園球場近くの公衆電話で猛アピ―ル

「熊原です。今日は、何かお手伝いできることありますか?すみません、実はもう近くまで来ちゃってます」

「しょうがねぇな、来いよ」

電話の相手は阪神タイガースのチーフトレーナー。私が26歳ぐらいのときの会話です。

バイトの給料が振り込まれる度に、呼ばれてもいないのに3万円を使って、新幹線で東京から甲子園へ向かいました。

昔は甲子園球場の脇に古い電話ボックスがあって、そこから電話をするんです。東京からトレーナーに電話をすると、「もういいよ、今日はこなくて」って言われるから。

私のアピ―ルに、「しょうがねぇな、来いよ」と言われた時、自分の中では(トレーナーの手伝いを)やっているイメージができていた。だから、思いが強いと道は開けるんだと実感しました。

そして、その年のシーズン中の7月。ある選手が肘を壊して、治療のためにトレーナーと一緒にアメリカに行くことになり、トレ―ナー枠に空きができたんです。

そのタイミングでチーフトレーナーから電話が掛かってきて、「お前を入団させるから来い」って。

春の阪神キャンプに参加した新人トレーナーの中から、声がかかったのは私だけです。がむしゃらに行動したことで、夢への扉が開いた瞬間でした。

真の「プロフェッショナル」を標榜するスキルを

はじめまして、株式会社クマハラアスリートサポート代表取締役の熊原稔です。

縁あって、長年プロ野球の世界にトレーナーとして関わらせていただきました。日米野球にも参加し、世界に出て治療を行いました。

これまでのプロスポーツ業界での経験を若い世代にも伝えて、真の「プロフェッショナル」な治療家を増やしていきたいと思っています。

いま弊社では、月曜日の朝に「経営計画書」をもとに、会社の方向性とかビジョンの発表会をしています。ただ、スローガンはこうだよと決めても、一週間も経つとみんな、スローガン何だっけ?となってしまうことも多い。
共通認識や大切なことは、言葉にして繰り返し伝えていく必要を感じています。

今回の連載では治療家として私がこれまでに経験してきたことや、大切にしていること、いま考えている夢やビジョン。
そして、思い出深い出来事、体験したエピソードなどをお伝えしたいと思います。人との出会いは、治療家の楽しみの一つでもありますから・・・。

中学浪人から自衛隊に入るまでの波乱万丈

私は1965年生まれ(57歳)。親父の会社が倒産して、中学浪人をしているんです。

小学6年までは軽井沢に別荘があったんですが、親父の事業が失敗してからの、中1から中学3年間は毎年引っ越し。受験どころじゃなく高校にも落ち、中学浪人に。

アルバイトしてお金を貯めて高校に入って、1学年下の後輩と同じ学年。

気まずさとか気恥ずかしさ。そんな中で一番良かったのが高校野球に出合えたこと。自分が自分であるというか・・・いろんなことを表現できたらと思いました。

今考えるとそういう場所があって、とっても良かったなぁって。

将来は体育の先生になりたいと思って、野球のセレクション試験を受けました。仙台大学の体育学部。セレクションは大丈夫でしたが、案の定、お金がない・・・。泣く泣く進学は、諦めました。

何をしようかとなったときに、親父が「自衛隊に行ってこい」って言うんです。海上自衛隊 横須賀教育隊っていうところでした。自分がやりたいことではなかったので、嫌で嫌でしょうがなくて。お金が貰えて資格も取れるって、いろんな良いことを言うわけですよ。

入隊してみると意外に向いていて、横須賀ではけっこう優秀だったんですよ。一級のバッジを貰ったりしました。

半年経って横須賀から江田島の教育隊へ。その後、護衛艦配属になりました。ここまでは順調だったのですが、そこからが大変でした。私は乗り物に弱く、船酔いで血を吐いてしまうくらいきつくて。船はもう地獄でした。それで途中で辞めたんです。2年も行かなかった。

20代なのに、何をしたいか願望といったものがありませんでした。悶々とした中で、やっぱりスポーツに携わる仕事をしたいと思いました。

専門学校で目標に向かって一直線

まず専門学校に行ったんです。メディカルトレーナー専門学校。そこでは国家資格が取れなくて。卒業して「プロ野球のトレーナになりたければ、国家資格がなければだめだよ」と言われ、東洋針灸専門学校に3年間通いました。

学びながらいろんなアルバイトをさせてもらいました。

朝が早くて、夜は遅かろうが、休みがゼロと言われようが、全然苦じゃなかった。夢に近づいている実感がありましたから、楽しかった。自分の中で、プロ野球に行くというのが絶対だったんです。

東洋針灸専門学校の2年の時、鍼灸指圧でマッサージと指圧の免許が貰え、3年の春、学校のパンフレットに阪神タイガースにいるOBの人たちの名前があって、うぁーって思って、ここに電話しようと。卒業間近でした。

球界は春のキャンプ直前。阪神の球団事務所に電話しました。

「私は、こういう者です」と話を聞いてもらったら、「お前1回来い」となり、「じゃあ、春のキャンプに参加しろ」と言ってもらえました。もう、飛び上がるくらい嬉しかったですね。

「春のキャンプ参加」の朗報、新たな試練も

憧れのプロ野球のキャンプです。期待と緊張。キャンプ地は高知・安芸市。

私はファーム担当で部屋なんかなくて、ホテルのトレ―二ング室に簡易の部屋を作って、そこで寝ていました。

トレーナーと言っても小間使いみたいな感じ。ブルペンとかに水を配り、バンテージを巻いたり、アイシングを作ったり。でも、その場に居るだけで幸せでした。

夜は飲みから帰ってきた選手に部屋に来てくれと言われ、寝付くまでマッサージをしました。寝たなと思ったら、そこから針灸の国家試験の勉強を開始しました。体力的には大変でしたが、卒業したらここに入りたいから必死です。集中してガーッとやりました。

そうやって春のキャンプが終わり、チーフトレーナーに阪神に入りたいとお願いしたけど、「空きがないから今は無理」との答え。掴みかけていたチャンスをモノにすることはできませんでした。

これからどうするか。いまできることをやるしかない。東京では病院でアルバイトをしながら、給料が振り込まれる度に甲子園に行きました。

望んだ球団、新しい環境。トレーナーの日々

今思うと、もうこれしかないという覚悟みたいなものがありました。そして、甲子園球場脇の公衆電話での猛アプローチをきっかけに、2度目の挑戦で阪神に入団することができました。

その頃、私は26か27歳。球団とは契約社員のような形でした。

最初に声を掛けてもらったOBで1軍のトレーナーだった長嶋さんに、「お前は、1軍に来い」って言われました。いろいろ遠征に行ったり、羽目を外して遊んだり。

その時の選手は、岡田(彰布)さん、真弓(明信)さんや平田(勝男)さんとか強烈な選手ばかり。大変でしたけど楽しかったですね。

それから10年・・・

 メジャーに移籍した新庄選手から突然の電話

阪神で10年やって、そろそろ新しいことをやりたいなと考えていると、2000年にニューヨーク・メッツに電撃移籍した新庄(剛志)から電話がありました。

新庄選手は阪神の5年12億円の破格の条件提示を蹴って、渡米していました。

「熊さん アメリカ来れる?」

「いや、阪神との契約があるから行けないよ」

その時は知り合いに行ってもらい、秋季キャンプの時に、また電話があったんです。

私もちょうど(阪神で)10年。

ある程度プロ野球がこういうもんだなって見えてきて、新しい環境やメジャーも見てみたいっていう思いがありました。

ノムさんの贈る言葉を胸に、メジャー挑戦が始動

思い出すのは秋の甲子園球場のセンターでのやり取り。ヘッドコーチとノムさん(野村克也監督)がいて、呼ばれたんです。

「お前ね、日本の球界で世話になって、それでいいんか」

「いや、メジャーで勉強してきたいんです」

ノムさんらしい贈る言葉を受けて、12月からのハワイの自主トレに参加。新庄のパーソナルトレーナーとしての渡米でした。

ニューヨーク・メッツのホーム球場

現地では、いろんな試練、苦労や悲哀や苛立ちがありましたが、メジャーでトレ―ナーとしての初体験は、エキサイティングでした。

有名選手との出会いなど数々のドラマがあり、日本の技術が「絶対世界で通用する」と確信したこと。一流のピッチャーから個人的に指名を受けたこともありました。

アメリカでは市民生活を体験したという訳ではないんだけど、野球については言うべきことはちゃんと言う。主体性を持って取り組むことの重要性を感じました。2002年には、日米野球に、メジャーチームのトレーナーとして同行させてもらう経験もしました。

このあたりのお話は次回以降に詳しくお伝えしたいと思っています。その後、2003年に日本に戻ってきて起業して、入間市に、くまはら接骨院を開業しました。

続く

熊原 稔 Minoru Kumahara

経歴・実績

1993 ~2002年 阪神タイガーストレーナー
2002年 サンフランシスコジャイアンツ新庄剛志選手専属トレーナー
2002年 日米野球メジャーチームトレーナー
2003年 くまはら接骨院開業
2008年 株式会社クマハラアスリートサポート設立
2010~2014年 東北楽天イーグルスコンディションディレクターとして優勝に貢献 WBC・侍ジャパン日本代表のトレーナーとして帯同

文/熊原 稔 編集協力/頼母木俊輔 

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