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我以外皆我師〜謙虚でいたい

「我以外皆我師」とは
呪文の一つではありません。

「われいがいみなわがし」と読みます。
意味は「私以外の人は皆私の人生の先生のようだ」という意味です。

よく「3人いれば派閥ができる」と言います。

しかし私は「3人いれば他の二人は私の先生になる」というニュアンスが好きです。

なぜ、3人いると他の二人が先生になるのか?

二人のうち、一方は「私」よりも優れているとします。
単純にその人は尊敬の的になれます。
また、一方の人は「私」よりも劣っているように感じるかもしれません。
それはそれで「悪い反面教師」になれます。

そういうことで
「3人いると二人は自分の先生となれる」
というのです。

これを大きな集団で考えてみたのが
「我以外皆我師」というわけなのです。

この言葉は
「三国志」や「宮本武蔵」などの著者であり
大衆文学の祖と言っても良い
吉川英治さんが好んで使っていた言葉です。

年を重ねるたびに
人はいろんな知識、知恵などが
増えていきます。
少しずつ、生きる上での自分の引き出しも
増えてきます。
しかも、そういう時は「恒産」もあるものです。
「恒産」とは一定の収入のことです。
生活のために必要なお金は身についていると仮定します。

そうすると
人は二極化すると思います。

まずは、自分の都合や地位におぼれて
威張っている人。
もう一方は、自分が満たされているので
世間に対して腰が低い人です。
どちらが生きやすいか?と言われれば
腰の低い人の方が社会に受け入れられやすいと
気づけます。

昔はこのように
自分が物心どちらも豊かな人を
「実ほど首を垂れる稲穂かな」と言いました。

稲は秋になって米が実ほどに
頭が垂れてきます。
これを腰の低い人に例えたのです。

これらから考えると
簡単に「我以外皆我師」ということは
言葉にすることは出来ませんし、また
実行することは難しいと思えます。

一つ方法があるとすれば
それは何事にも「素直」になることだと思います。
私も「素直」ではありませんが・・・。

運が良い時でも
逆に悪い時でも
「素直」にその現実を受け入れられる人は
まさに「自分軸」のある人だと思います。

さらに言えば
「自分軸」があるが故に
周囲のみんなを
自分の先生として見なす謙虚さが
身につくと思います。

これも一朝一夕には出来ません。
こんなこともあるな〜くらいに
考えた方がベターです。

ちなみに
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」は
現在の上皇后様の美智子様の好きな言葉でも
あることも付け加えておきます。

今回は「私以外の人はみんな先生である」という言葉を引用してみました。

逆に若い人は「こうべが立っている」方が
良い時もあります。
若い時にしか、今しか
できないこともあるのも事実です。
自分に合わせて「言葉」を使ってみてください。

今回はここまで
では また
おわり

shima_photoさん素敵なお写真
ありがとうございます。


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