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階段下の教室【Ver.2】

ボイラー室の扉から、錆びついた鉄の匂いがする。凍える匂いに溶け込むように『平家物語』を読み上げる声が、第三階段に反響した。声変わりをしかけたユウタの声には、まだ子どもらしい明るい響きが残っている。
『平家物語』の暗唱テストを、ユウタは、頑なにやらないと言い張ったつもりだったが、結局、階段の踊り場でやらされるはめになった。とはいえ、当然一句も暗記などしていない。ただ、一行ずつ水城先生の言った文言を、後から唱えるだけだった。

「祇園精舎の鐘の声」
「ぎおんしょうじゃのかねのこえ」
「諸行無常の響きあり」
「しょぎょうむじょうのひびきあり」
「沙羅双樹の花の色」
「しゃらそうじゅのはなのいろ」
「盛者必衰の理をあらはす」
「じょうしゃひっすいのことわりをあらわす」
「おごれる人も久しからず」
「おごれるひともひさしからず」
「ただ春の世の夢のごとし」
「ただはるのよのゆめのごとし」
「たけき者もつひには滅びぬ」
「たけきものもついにはほろびぬ」
「ひとへに風の前の塵に同じ」
「ひとえにかぜのまえのちりにおなじ」

テストと呼ぶにはあまりにいいかげんな、そんな茶番を、最後の行まで終えた。間を空けずに先生が言う。
「じゃ、ユウタくんは、Cね」
半ば無理やりやらされたテストは、一番低いC評価なのだった。理由を尋ねる声は、不満げだったはずだ。
「なんでCなんですか」
「だってユウタくん、暗唱はしてないじゃない」
そんなの、やらなくても分かってたことじゃないですか、という言葉は、飲み込んだ。まっすぐにこちらを見る目が、その他人を小馬鹿にしたような、でも、嫌味のない先生のニヤつきが、他のどんな大人よりも正直に見えたから。
踊り場に差し込む日の光が先生を照らす。ユウタは、しばらく目を合わせる。使われることのない第三階段の蛍光灯は、もはや生きているのかさえ、誰も知らなかった。



木造の第四中学校には、地下があって、技術の授業で使う木工室と金工室が並んでいる。二つの特別教室を通り過ぎて、廊下の突きあたりまで行ったところに「第三階段」があり、その階段下が、ユウタの定位置だった。
授業中、生徒は一人でいてはいけない。だから、どんなに望んでも、誰かしらがやってきて、別の空いた部屋に移動させられる。それまでの束の間、いつも、ユウタはそこにいた。
使用禁止の第三階段は、掃除が行き届いていない。ほこりっぽい床に座ると、制服のケツが白く汚れた。踊り場の窓から、宙に舞うほこりを抜けて、日の光が階段下まで差し込んでいる。突きあたりの壁を背に座る俺から、少し離れたところに日向ができた。
秋になり、肌寒くなってくる頃だった。全く日の当たらない地下の階段下は、すでに真冬のように寒い。かじかんだ手に息を吹きかけ、膝裏に挟んで温めた。脇を締め、膝を縮めて、体温を逃さないようにする。鼻をすする音が、繰り返し、階段中に響く。壁にもたれるユウタにとって、暖かい日向は、遠かった。
いろんな教師が、教室に呼び戻しにやってきた。腫れ物に触れるような声音で。優しさを取り繕ったような口調で。誰もが、もう分かっていることを繰り返す。水城先生も、そうした教師に混ざって、ユウタのところにやってくる一人ではあった。
パパン、パパン、パパン……。上の階から聞こえる独特な足音で、誰が来たのかすぐ分かる。どういう仕組みか、水城先生のサンダルは、一歩で二回、地面を叩く。
踊り場まで辿り着いたことが、日向にできた人影で分かる。踊り場からは十六段。あと三十二回サンダルの音がしたら、目の前に先生が現れる。
パパン、パパン、パパン……。
体温を逃すまいと、伏せていた顔から目線だけを上げた。日影の壁に肘をついて、水城先生が、ただ、平然と言う。
「ユウタくん、明日、『平家物語』の暗唱テストやるから」
人の悪そうな笑みを口もとに浮かべながらこちらを見る。
媚びを売らない、相手に有無を言わさない強い響き。先生はいつも、そういう喋り方をした。教室に戻ろうとか、相談に乗るよとか、そんなことはどうでもいいことみたいに、ただ用件を言う。
「いやです」
顔を上げて、なるべくすげなく、無愛想に答えたつもりだった。
「テスト受けてもらわないと、成績つけられないんだよね」
それが、昨日のことだった。



テストを終えると別室に移った。一階の保健室と放送室の間にある、生徒は誰も知らないであろう部屋だ。
扉から縦長に伸びた部屋の突き当たりに窓があり、真ん中に長机が二つある。案外広く、両脇のスチール製の棚に、いつから置いてあるのか、先生向けの黄ばんだ雑誌や過去に使われたのであろう行事用グッズが、ほこりにまみれていた。
名前も知らない教員が、ユウタの横に座って何やら話をする。ユウタ自身は、はじめから何かをやる気はなく、問題集を探す風を装って、かばんをガサガサとあさっていた。
入れっぱなしのノート、教科書、くしゃくしゃのプリント。
その中で、ふと国語の教科書に手が触れた。ほとんど新品のような教科書が、かばんから出てくる。

ーーー祇園精舎の鐘の声

第三階段の冷たい空気に響く水城先生の声が、頭の中によぎった。132ページ、『平家物語』……。
ぼんやりと見開きの序文を眺めた。先生の声が、初めて小難しい漢字と結びつく。
「諸行無常の響きあり……」
先生の言葉に応えるように、なんとなく呟いた。すると、また、先生の声を思い出す。今度は、明らかにユウタに応えを求めてきた。

ーーー沙羅双樹の
「花の色」
ーーー盛者必衰の
「理をあらはす」

先生の声に被せるように教科書を読む。

ーーーおごれる人も「久しからず」
ーーーただ春の「世の」夢のごとし

今度は、ユウタが投げかけた。

「たけき者も」ーーーつひには「滅びぬ」
「ひとへに……」

そして、最後の一文を呟く。

ーーー風の前の塵に同じ」

その一文を読む声が、自分のものか、はたまた先生のものか、ユウタには分からなかった。



部活に顔を出した。何も持ってきていないので、借り物のラケットと制服でバドミントンをした。ただ、顧問が来ると、体育着すらない奴には、活動はさせられないとのことで家に帰された。
今日の担当は、水城先生じゃなかったか。機嫌のいい日の先生だったら、迷惑そうな顔をしながら、少し遊ばせてくれた。
仕方なく家に帰る途中、「汽車公園」に立ち寄った。
ひどく寂れていて、木陰の朽ちかけたベンチに座ると、鉄製の脚が軋む音がした。人の気配がしなかった。ユウタは、カラスの鳴き声を聞きながら、ぼんやりと公園の中央に飾られたSLの車体を眺める。
小さく溜め息をついた。カラスは、頭上を通り過ぎていく。ユウタの目線は、自然と日の暮れ始めた空に向かう。枯れた落ち葉の匂いが、冷たい空気に満ちている。
たぶん、明日も同じように学校に行くのだろう。
そして、同じようにあの第三階段の階段下に座って、同じように先生に連れられてあの部屋に行き、同じように部活に寄って、怒られて、家に帰る。
何も変わらない。ずっと繰り返してきた毎日が、今日も終わろうとしていて、また明日から始まる。明後日も、明々後日も、何も変わらず、繰り返される。
うんざりとして、ユウタは、ベンチから立ち上がった。
「祇園精舎の鐘の声……」
水城先生に教わった言葉を、何気なく呟いた。
先生はまた、何か課題を出してくるだろうか。そういえば、一体どういう意味なんだろうか。いつものことだが、あの人は、特に何かを教えてくれるわけじゃない。
「諸行無常の響きあり……」
そのまま、続きを呟く。やっぱり、適当な教師だな、と思う。
吐き出す息が白かった。
ただ、呟いたその声は、今度こそ紛れもなく、ユウタの声だった。

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