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いつかの卒業式に宛てて

元々、少し年の離れた「友人」に頼まれて、一本の随筆を書いていた。あわよくば、国語の授業に使えないかと、二週間ほど考えた。
そうして、二週間かけて書いた文章は、一文字も残らなかった。改めてこれを書きはじめた日、自分とは、何ら関わりのない小学校六年生の卒業式を見たことがきっかけだった。
六年間の思い出を語る小学生。その思い出は、「六年間」という時間を語っているようでいて、実は、そうではない。
「初めての小学校!」
「友達ができるか、不安でした!」
まだ、今よりも幼かったあの頃は、あの瞬間は、卒業する彼らにとって、どんな記憶として残っているのだろう。そして、残っていないのだろう。
三年前、小学校三年生の、たった半年という時間。その、一瞬のような出会いに、どんな意味があったのだろう。

これは、一通の手紙である。宛先には、きっと、届かない。



夏休みの前、枯れ果てた鉢植えに水をあげ続けたら、三輪、花が咲いた。水をやったのは、一人の中学生である。
水をもらい、本当に嬉しかったのは、咲いた花より、死んだ枯れ葉の方だろう。見捨てないということには、それだけの力がある。
半年もの時間、咲くかどうかも分からない枯れ木に水をやる。枯れたことのない花たちは、水をやってもらえたことのない枯れ枝たちは、羨むことも、ないだろう。

知識とは、何かの名前ではなく、あの人だったら、何て言うだろうかと思う。あの人だったら、どんなことをするだろうかと考える。そういう想像力のことだと思っている。だから、知識はいつも、教えてくれた「人」との思い出を纏っている。
師弟関係が好きだ。自分は、きっと、師匠だったらなんて言うかを考える。誰かに授ける自分の知識が、師匠が自分に教えてくれた言葉に、ちょっとだけ似ていてくれるように。
そうではない知識は、たしかにある。ただ、「人」と結びついた知識を持てない人は、「弟子」には向いていない。それは、悪いことではないが、少し、寂しいことであるように思う。

そうしたわけで、「師」とは、年齢の高低ではないのだが、思いの外、それは常識じゃない。

花の名は、忘れてしまった。ただ、枯れ草を見るたび、きっと、彼なら水をあげるのだろう、と、一人の中学生を思い出す。その思い出は、あの枯れた鉢植えに、生きた蕾があったという、一つの知識を教えてくれる。
彼は、わたしから見れば歳下であったが、多くのことを教わった。生徒にとって、教師が「先生」であるように、教師にとって、生徒たちもまた、「師」である。



歌を一曲だけ歌うとする。どのように歌うだろうか。
一人で歌うのであれば、自分の答えを持てばいい。楽しく歌いたい。音程を外さずに歌いたい。下手くそでも、感動させる歌を歌いたい。あとは、自分自身にどこまで正直になれるかと、そのための努力をいかに積んだかで、歌は決まる。
合唱が難しいのは、しばしば、いっしょに歌う人たちの間に、一つの答えが出るとは限らないからだ。

やたらと、中途半端な合唱を見た。一生懸命に前を見て歌う人。楽しそうに体を揺らしながら歌う人。笑顔であったり、もはや何かを睨むかのような真剣な顔であったりする人。口パクの人。緊張で声が出なくなってしまった人たちに、練習通りの歌を歌い切る人たち。
ぼくは、こういう合唱が、どうしても好きになってしまう。
一体感のある歌というのは、そんなに美しいだろうか。一つの目標に向かって一致団結し、一生懸命に練習し、本番で歌う。勝てば、感動の涙を流し、負ければ、悔し涙を流す。そういう姿を、期待する。
真剣に歌わなかった合唱に呆れることは、正しいだろうか。初めからやる気がなく、練習も真面目にやらない。本番に歌えば、当然、勝ち負けとも関係がなく、悔しくもなく、適当にやったことを笑い合う。そういう姿を、残念がる。
そんな思いは大抵、大人の方の、勝手である。

歌い終わった子たちが、舞台から降りてきたとき、一人ひとりと目が合った。思わず、お互いに笑ってしまった。しかし、本当に彼らが、悔しがり、涙を流したのは、前日のことである。
彼らは本番、バラバラであることを知っていた。一つの目標に向けて、一致団結できないことに、気がついていた。かといって、適当に歌うには、あまりにも一生懸命、練習してきた。
全力で走った結果、ゴール寸前でタイムアップになるということがある。本当に悲しいのは、タイムアップになった瞬間ではない。もう、タイムアップになることを、目の前にした瞬間なのだと思う。
だが、その瞬間に目が合って、同じ気持ちを共有してくれる人がいたのなら、それは幸せだと思う。
タイムアップになっちゃったことを笑い合えたなら、泣けたなら、それは幸福なことだと思う。
それを、さほど気にしていない奴らもいる。それもそれで、こういう奴もいてもいいんだと思えるなら、やっぱりそれも、嬉しいことだと思う。

色々なやつがいるということは、実は、不協和音である。気持ちが揃わなかった合唱。それでも、笑い合えた歌というのは、いい歌だったと信じてる。
なぜなら、そんな場所は、どんなやつも「ここにいていいんだ」と、思える場所だったということだから。

彼らの、彼女たちの共通点は、ただ同じ時間、同じ空間を、人生のほんの一時、共有したというだけである。



とある教室に、裏返しに貼られた賞状があった。テスト期間中は、カンニング防止のため、全ての掲示物が目隠しをされる。裏返しに貼られた賞状は、テストを終えて、表に返されるのを忘れられていた。
とある女子生徒が、そのことに気づき、担任に報告をする。その後ろで、そこに賞状が貼ってあったことも忘れた生徒たちが、鬼ごっこをし、談笑し、黒板に落書きをして遊ぶ。
賞状は、体育祭の大縄で、優勝したときのものだ。

20回だったか、30回だったか……。2分だったか、3分だったか……。ルールも、何回跳んだのかも、すっかり忘れてしまったが、前半戦と後半戦に分かれていたのだけ、覚えている。そして、一番回数を跳べたのは、前半戦の最初の一回目だった(と思う)ことだけ、覚えている。
集中力なんてものは、そんなに長く保たんだろう。最初の一回(だったと思う)。この、一回(だったはず)である。

昔から、「結束」という言葉を、好んで使う。「一致団結」というのは、呪いである。
たまたま近所に生まれた人間が、たまたま集まった集団が、「一致」するとは、恐ろしくさえあると思う。そんな奇跡は起こらない。しかし、「団結」という二文字は、「一致」と離れがたくなってしまった。
「結束」とは、違うものが結びつくという雰囲気である。結んで、束ねるのだ。そこには、再びほどけて、ばらける可能性がある。
それは一体、どんな結び目だろうか。

そのクラスは、担任が、大縄の回し手を決め忘れたことで、特に、これといった作戦もなく、体育祭の実行委員が回し手となった。かわいそうである。
一人、体調不良で見学していた少年と、ぼくは、グラウンドの隅のベンチから、練習を眺めた。さっと集まり、さっさと練習を始めるクラス。メガホンを持った担任が、一生懸命、声かけをしている。回し手に、回し方のコツを細かく指導する先生。責任感のあるリーダーがいるのだろう。大きな声の、号令が聞こえる。
隣に座る少年が笑って言った。
「みんな、からかってるだけだよ」
「そうだったら、嬉しいな」
そう、笑って言い返した。何のことかを、彼はもう、忘れてしまっただろう。
大分遅れて、練習が始まった。いつものことだ。いつまでも、ふざけ合っているアホどもに、呆れた何人かが、こっちを見ながら苦笑い。回し手の実行委員が、強引にかけ声をかけて、縄を回しはじめる。
いち! に! さん……!

真剣に「勝ちたい」と思う同じクラスの子のために、そうでもない子たちも「ちょっと付き合ってやるか」と、思えるくらいがいい。「付き合ってやった」ら、元通り。その「付き合い」は、軽口を叩き合うくらいには不真面目で、それでいて、跳び切ったとき、一緒に、全力で、喜べるくらいには、真剣だ。
本番前、最後の練習、どういう気まぐれか、肩を組む円陣に、混ぜてもらった。かけ声は、何だったか。彼らは翌日、どのクラスよりも多く、大縄を跳んだ。

思うのだ。蝶結びのように、引けばほどける結び目も、ほどくまでは、ほどけない。



「あの頃は、楽しかった」
これほどの足枷はない。
今、この瞬間は、一番楽しい瞬間であってほしいが、一年後、戻ってきたい場所であってはならない。学校というのは、ちょっと恨まれるくらいが、本当はちょうどいいのではないかと思うことがある。
思い出は、忘れられてこそ、次の思い出を生む。ぼくにとって、新しい知識を得ることは、教えてくれた「人」との思い出を失うことである。
知識は、誰かとの思い出と結びついている。新しい知識を手に入れることは、いつも、過去の誰かとの、別れである。



ーーーこれは、一通の手紙である……、宛先には、きっと………、届かない。

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