見出し画像

仕事の心がけ。真向かいじゃなくて、隣に座ること。

決して仕事ができる人なわけじゃないけど。
私にもささやかな仕事の心がけがある。

それは、仕事をする人と真向かいじゃなくて、隣に座っているような気持ちで仕事をすること。

隣に座るとは

コロナ禍突入と共に在宅勤務が浸透しているので、座ると言っても物理的な話ではなく気分の話だ。

(お願いしておいたはずですよね)
(いつもそうやって押し付けますよね)

口には出さなくても、そんな気持ちが透けることはあるだろう。それは、電話越しのちょっとした間の取り方とか、メールの口調なんかに滲み出る。

まさに、You and Me。
あなたと私が、剣をカチンかチンとやり合っているあの感じだ。

真向かいに座ると、なぜかこういった、臨戦体制に陥りがちになる。どちらかが勝ち、どちらかが負ける。

ところが、横に座るイメージだと、こんなふうに世界が見える。

お願いしたことをやってもらえていないときのケースはこうだ。
(お願いしたこと、何かに阻まれてできなかったんですか?)

そして、いつも押し付けられがちに感じるケースはこうだ。
(どこかから圧力かけられてるんですか?)

どこに違いがあるかお分かりだろうか?
横に座るケースは、相手が同士で、第三、第四の登場人物を感じさせるのだ。

そうすると、つづきの会話が違ってくる。
「そうなんだよ、実はね、こうでああで…」
「それは大変でしたね。となると、ああしてこうして…」
いつの間にか、同志になっていく。

これは、私が特に取り柄もないなりに、快適に働きながら成果を出すことだけは長年考え続けてきて行き着いた仕事のやり方だ。言ってみれば、「私」ではなく「私たち」で仕事をするやり方だ。

なぜ隣に座りたいのか?

一緒に仕事をする以上、相手と自分の関係というのは視界の中心にあるのが普通だ。しかし周辺にはさまざまな設定があり、背景がある。ゴールを共に目指すなら、お互いの敵や味方をともに分かち合い進んでいく方がスムーズだと思っていたらこうなった。

向かい合って座った気分だと、それがなかなか、お互いの足を引っ張ったりアラを探してしまったりと難しくなる。この状態では、エネルギーを無駄に使い、時間をロスする。ギスギスした職場では、そんなことを繰り返してきた。いわば、視界が狭くなり、エネルギーの奪い合いになる状況だ。

だから、横に座って一緒に苦楽を共にする形でいろんな話をしながら、成果につながる決定をパッパとして動く。

遠回りしているようでも、山をひとつ超えふたつ超えてる実感がある。これが、気持ちよく感じる。仲間うちで押し付けあって時間だけ経過するより早いし、成果を独り占めする人もいない。

大人数での隣の座り方

あなたと私の例を挙げたが、チームの時も似たようなことが言える。

(いつも、オタクの部が準備不足なんだよ)
(そちらの都合で勝手に決めないでほしい)
(時間も予算もないなかうちが犠牲になる)

みんながこんな思いを抱えて会議に来ているとする。そうは口には出さなくても、言葉の端々に棘を感じることもあれば、裏でチャットで愚痴が流れてくることもある。声のでかい人のプレッシャーが電話で響き渡り、いつも我慢している人の顔が目に浮かぶ(対面で会ったことがない人でも)。そんなことは日常茶飯事だ。

不思議なことに、それが悪いわけではない。プレッシャーがあったり、多少思いの強い人がいるプロジェクトで大きなブレークスルーが起こることもあるし、何にもなく平和に過ぎても何が良かったのか、いまいち印象が薄いプロジェクトもある。

ただ、一緒に働く人たちに、「さて、今日もいっちょ、仕事すっか!」と、苦なく、思ってほしい。「このチームで働くの、快適だな、悪くないな」それくらいに、思ってほしい。それで、冒頭の、横に座る感覚だ。

チームの場合は、向かいに座っちゃてる人たちの間にアーチ状の椅子を並べれば、みんなが大きな円卓を囲んでいるようになる。それを目指す。

チームの人たちが輪っかになる

イメージ的には、同じ円の縁に横に並んで座っている状態だ。そうすると、どこかに圧をかけると、輪っかは乱れて崩れてしまう。大きく張った輪っかなら、空高く飛ぶことも、回転して進むこともできる。そのためには、メンバーがのびのびできるよう空気を和らげ、言葉の不足を丸く補い、圧を逃し、歪みを見つけて、チームを囲む環境の弱点を見つけて是正していく。

時には、セコさも必要だ。共通の敵を作って誤魔化すこともあるし、グローバルのお墨付きといった謎の小道具を使うこともある。大事なのは、チームのみんなが互いに攻撃しないよう、横に座るひとつの輪っかを維持することだ。

具体的には、どうするのか。

チームマネジメントとか、プロジェクトマネジメントとか、組織管理にはさまざまな理論やスキルがあるのでそれを学ぶのも良い。けれど、人と人の化学反応で物事が進んでいくと経験則でわかってから重視するのはもっぱら、「ひとりひとりの状態」になった。

成果物はタイムリーにあがっているか、忙しいのか、情報はとれているのか、余裕はあるのか、サポートは得られているのか、苦痛はないか、など。ひたすら、ケアだ。顔は見えなくても、モヤモヤを察知したらとんでいく、いや、オンラインツールで話しかける。

全体で話す時は、方針や日程やら予算の話が話題になるが、なんとなく見えてこない、不安があれば個別にアプローチする。その時もやはり、隣に座るイメージで。

予算やビジネスプランや、オペレーションなど、多少無理や妥協を強いることは、仕事ならあるかもしれない。難しい局面は、解決法の模索の他は、悪者探しでなく、人でなく環境や状況の見直しをする。そうすればいずれ改める余地がある。そうして、みんなが横に座り合えるようになんとかやっていく。

ひたすら地味なことを繰り返す。
何らかの形で進むよう、またはやめられるよう、調整、調整、調整。身を削って助けたりはしない。「そうだね、そうなるよね」という形に持っていくという意味の調整だ。誰かだけが犠牲になって、輪っかから離脱しないよう、輪っかが保てているよう気を配る。ずっと、横に座り続ける。

こうして書いていても、やはり、考えるのもやるのも難しいと気付かされる。

今日も隣に座り続ける

この流儀の由来は、かつて仕事を一緒にした人たちからの教えだ。尊敬する先人たちのやり方を見てきて、私もそうしたいと願ってきた流儀なのだった。隣で話を聞いてもらえることや刻々と姿を変える輪っかの一部に居られるのが嬉しかった。

併せて、攻撃的な人から身を守るために、その人の正面からサッと姿を消す術を覚え、そんな技と掛け合わせてパワーアップしながら進化してきた。

今回初めて言語化してみたが同じ感覚をお持ちの方はいるだろうか?

これから、技術も進歩して、仕事の中身もやり方も多いに変わっていくと思う。けれど、人が共に働くうえで、「思いが乗っていく器を共有する」と言う点では、紙の時代もITの時代も変わらないと思う。隣に座ることで、間ができる。そこに、思いが乗っていく器ができると思っている。

できたらハッピーな器を作れる人になりたい。

そのために今日も密かに、人知れず、横に座るイメージを実践する。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?