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憂鬱な夜を乗り越えて

皆さんこんばんは。かんてんです。
少し遅れましたが、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。


最初の前置き


 さて、年末にひどく自傷的な文章を投稿したわけですが、あの後も自分を嫌になる気持ちはしばらく消えませんでした。ただ、自分の思いを一度言葉にしてみることで何に悩んでいるのか確認できたことは大きかったです。それを公の場に投稿する必要性はないのかもしれないけれど、もし私と同じような悩みを抱える人がいたら、あの文章を読んで何か感じることもあるのではないかと思って投稿しました。
 前回の投稿の経緯について改めて言及する予定はなかったのですが、誤解が生まれそうな気がしたので、最初に少しだけお伝えさせていただきました。

 ちゃんと自分の心に向き合うと色々なことがわかって嬉しくなったり悲しくなったりします。未来への目標を浮かべたり、過去の後悔を思い出して嫌になったり。そういう意味では、私もまだ感情を失っていなかったのかなあと普段を振り返って思います。



変わるものと変わらないもの

 私がnoteを始めたとき、最初の自己紹介で「物語が書きたい」という話をしたと思います。その気持ちは今でも変わっていなくて、物語が思いついたときに少しずつ執筆を続けています。急いで書こうと思っても、なかなか展開が浮かばないので、本当に少しずつなのですが物語の続きを書いています。
 ちょっと昔の話をしますね。
 私が「物語を書こう」と思ったのは高校生のときでした。当時受験を控えていた私にとって、小説の中の世界は自分の嫌な気持ちから逃れることのできる唯一の空間でした。そのときそのときに読む作品によって心がいっぱい動いて、現実では体験できない世界も小説の中では楽しむことができる、そういう特別な空間に目を奪われていたんだと思います。
 そうして小説を読むのが習慣になっていくうちに「自分でも書いてみたい」という気持ちが湧き上がってきたんです。もちろん「小説を読むのが好きだから」という単純な理由で書こうと思い立ったわけだから、最初は内容なんて何も思い浮かびませんでした。とりあえず登場人物とストーリーの軸を考えて、一旦書けるところまで書いてみる。話の展開が浮かびそうなら書き続けて、浮かばないならその話はそこで終わり。そう考えてみると、当時の私はまず書くことだけに集中していて、一本の大きな物語を作ろうという意識はなかったように思います。
 その考えが変わったのが、高校での国語の授業でした。その授業では夏目漱石の『こゝろ』を扱っていました。最初は授業としていつものように読解をするだけだと思っていましたが、私は夏目漱石の描く細かな心情表現に衝撃を受けます。単に登場人物が出てきて、場面が切り替わるごとにやり取りをするだけではなく、ちょっとした言葉の違いで心がすれ違っていく様子が映し出されている。その漱石の書いた表現に心を奪われました。
 それと同時に、私は「心の中にある思いを純粋に言葉で書き出してみよう」という思いが芽生えました。というのも、当時は人間関係に悩んでいて、その気持ちを吐き出す方法が無かったのです。私は人と話すのがひどく苦手で、集団の中に入っていくのが嫌いでした。自分がそこに入って話をしようとしたために、場を悪くしてしまうのではないかという不安や恐怖があったためです。
 しかし、そんな思い、人に話しても「気にすることではない」と突き放されてしまうもの。ただ心の中に”もやもや”が募るばかりで、いよいよ耐えきれなくなるところまで来ていました。
 そんなとき、夏目漱石の『こゝろ』をはじめとする、様々な文学作品に出会って「言葉で表現すること」の大切さに気づいたのです。別に誰かに見せるわけでもない、けど自分のために文章を書く。言葉を紡ぐ。
 そこで芽生えた気持ちが、今もこうしてnoteを書くという形で続いているのかなと思います。


自分のため≠誰かのため

 私は自分の気持ちを整理するために文章を書くこともあるし、誰かに届けたいことがあって文章を書くこともあります。ただ、沢山文章を書いていて時々思うのは、自分のために書くものと誰かのために書くものでは、書くときの意識が異なるということです。
 自分のために書くときは、頭のなかのもやもやしているものをなんとか言葉にしている状態。言い換えれば、自分の気持ちを必死に言語化しようと試みているときなんです。だから、必ずしも綺麗な言葉が出てくるわけではないし、見たくない・聞きたくない言葉もたまに飛び出してくる。書いている最中でも出てくる言葉に恐怖を感じることがあります。
 一方で、誰かに書くときというのは「相手がどう思うか」を常に意識しています。自分ではこう伝えたいという気持ちがあっても、相手に意図した通り伝わるとは限りません。それは自分に気持ちがあるように、相手にも気持ちがあるから。上手く言葉にはできないですが、四六時中同じ生活をしていない限りは、それぞれにそれぞれの生活や環境があるはずで、人の発想はそれらに影響される部分があると思うんです。私が「嬉しい」と思うことでも、相手には「悲しい」と思う場合があるし、その逆も然りです。
 相手に伝えたくても、ちょっとした言葉の違いで伝わる意味が変わってしまう。そのことを意識するうちに「どうすれば思いがきちんと伝わるだろう」と考えて言葉を紡ぐのではないでしょうか。「ラブレター」は分かりやすい例かもしれませんね。「好き」という気持ちを伝えたいけど、ただ「好き」というだけでは相手に思いが伝わらないかもしれない。だから、表現を試行錯誤して「これなら伝わるはず!」という言葉を探すのだと思います。
 意識するものが違えば、書く言葉にも何らかの違いが出てくると思います。もちろん「思いを言葉にする」という点では共通しているけれど、「誰に届けるか」「どんな風に伝えたいか」を意識するだけで文章は多様になると思います。



最後に

 久しぶりにここまで長く文章を書いたので、ちょっと疲れました…。
ただ、考えれば考えるほど自分の書きたいことが言葉にできているような気がして少し嬉しいです。
 今年は去年よりも記事を投稿できたらいいなあと思っています。一ヶ月に2回は出せるようにしたい。その上で、本当に書きたいものはゆっくりと、時間をかけて読者の皆様にお届けしたいです。
 文通や交換日記のようなこともできたらいいですね。


 最後までお読みいただきありがとうございました。

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