見出し画像

照魔機関 第11話 アイは名前を書けない


当機関が有する桑原珠月についての記録


————閲覧中のページは、フィルターにより保護されています————【神無四辻 事象】
 当機関が初めて存在を確認した時、■■神は、守り神の■護が及ばぬ辻に顕現し、辻神を食らっていた。
 その食欲たるや凄まじく、中世以前は朝に■■、夜には三百の■■■■を飲干ししていたと推測される。

 その凶暴さから、■■■辻神と混同され■■■■、■■辟邪■に描か■■■■と同じ類の怪異■■■■■■■■。

 機関が■■■■■怪異の■■■■■■■■■■■■■、■■世に招■■■■■、召喚■■、依代■■■■■青■■詳細■不明。
 ■■■■■■■■■、現世■■■■■■■■■て捕食■■■■、■■■■■■■隷属す■■■■■■■■■■■。

 ■■名は【■■】
 ■■■■■■■■■■■■蚕■■■。

 人の姿をとるときは、神無四辻を名乗っている。



アイの記憶


(あれ……何をしていたんだっけ?)

 気が付けば、逢は灰色の世界を歩いていた。
 自分の手を引く大人の機嫌を損ねないように、小さな足を必死に動かしていた。

 雪に足が取られて転ぶと、大きな手が頬を打った。
 頬に手を当てると、少し腫れているような気がした。手が痛むほど悴んでいるせいで、触れた感覚がなくなっている。

 けれど足を止める事は許されず、引き摺られるようにして歩いた。

 姉達と同じように、自分はどこかへ売られたのだ。貧しい百姓の家じゃ、多くは養えないから……。

 人買いの後ろを歩きながら、逢は家族の事を思い出した。

 見えない物が見えるせいで、家族には随分嫌われた。何が皆に見えていて、何が見えないのかもわからないから、怖がらせてしまった。『目を潰すよ』と何度も打たれて、髪を引っ張られたから、口を閉ざすことを覚えた。

(口を利かなければ、怯えさせることはない。自分が売られた場所でも、それは通じるのか分からなかったけど……)

 姉達が話していたから、遊郭がどんな場所か知っていた。だけど人買いに連れられていった場所は、話に聞いていた場所とは違った。

 大きなお屋敷の隅にある、小さな離れ。そこに住まされている子供の世話をさせる為に、逢は買われたらしい。

珠月みつきは生まれつき体が弱くて、床から離れられない子だよ。その所為で気が触れて、変な事ばかり言うようになってしまった」

(大旦那様の話を聞いたその時は、よく分からなかった。でも後になって、あの離れが珠月様を閉じ込めておく為の、座敷牢だったのだと気付いた)

「見えない物が見えるんだろう? あの子の相手をしてやっておくれ」

(弟妹達の世話をしていたから、それなりに世話はできるかもしれないと思った。だけど話し相手になれるかどうかは、分からなかった)

 逢が離れの中に入ると、屋敷の主人は母屋へ帰ってしまった。
 一人で仄暗い廊下を奥へ進むと、羽を広げた蚕蛾が桑の葉にとまる画が見えてきた。あまりに綺麗だったので、それが襖の柄なのだと分かるまで時間がかかった。

おそるおそる襖に手を伸ばすと、
「お入り」
小さな声が聞こえた。

 部屋の中には小さな男の子が寝かされていた。灰緑の髪、透き通るような白色の肌、琥珀の目は逢を捉えられないはずなのに、逢を見て穏やかに微笑んでいた。

 こんなに美しい人がいていいのかと逢は困惑して、思わず恥ずかしくなって自分の髪を手櫛した。

「おいで。外は、雪が降っているんだろう? そこの火鉢で手を温めておくれ」

 逢は首を傾げた。この珠月という男の子は、目が見えず、床から起きるのもままならなかったはず。逢以外に、誰かが珠月の世話をして、外の様子を聞かせたんだろうか?

「お客さんが来るって、サンが教えてくれたんだ。火鉢を用意してくれたのも、彼なんだ。僕一人きりになってしまったから、色々と気を回してくれて……」

 そこでようやく、逢はこの部屋に居たのが珠月だけじゃないことに気付いた。彼の周りには、半透明の不思議な生き物達がいた。目が見えない珠月は気付いていないようだったが、ここにいるのは、サンという何かだけじゃない。

「ああ、そうだね。お客様をおもてなししないとね。ありがとう、サン」

 彼が何かと言葉を交わすと、半透明の生き物達が逢を部屋に招き入れ、菓子と茶を差し出した。サンという何かが、この生き物達に指示を与えているようだった。

(不思議と、怖くはなかった。あそこにいた怪異達からは、珠月様の身を案じているような、優しい気配がしていたから)

「好きなだけお食べ。遠慮はいらないよ」
 逢の空腹を見透かしたように、珠月は菓子を勧めて微笑んだ。同い年と聞かされていたが、彼は随分と大人びて見えた。

 饅頭を手に取って、遠慮がちに齧ったけれど、あまりの美味しさに、大口を開けて頬張ってしまった。その様子を聞いたのか、珠月は嬉しそうに微笑んで、喉を詰まらせないように茶を進めた。

 お茶を飲んで、またお饅頭を頬張った。お腹いっぱいになると、涙がボロボロ零れた。

(優しくされたから、今まで蓋をしていた気持ちが、溢れ出しちゃったんだ……)

 起き上がるのも辛い筈なのに、珠月は嗚咽する逢の頭を優しく撫でた。

「僕の大事なお客さん、名前を教えてくれるかな?」

「アイ、です」
 口を利かないと決めていたのに、不思議と口を開いてしまった。

「アイ、藍? それとも愛かな。 どう書くのか、教えてくれる?」

(答えられなかった。生きるのに必死だったから、文字の読み書きなんて、とても学べなかった。期待に応えられなくて、惨めな気持ちでいっぱいだった。だけど……)

 珠月は逢を笑ったりせず、そうするのが当然のように読み書きを教えた。サンが見聞きした話を聞かせ、逢の世界を広げた。

 部屋にいた怪異達は、大人の手を借りられない二人の為に、逢が珠月の世話をするのを助けてくれた。

(とても穏やかで、温かい暮らしだった。外の世界の広さは知っていたけれど、珠月様と一緒にいたかったから、出ていこうとは思わなかった。一緒にいると安心できた。
 だからあの幸せな時間がずっと続くと信じて、疑わなかったんだ……)

 ある日、母屋から人が訪ねてきて、逢に仕事を手伝うように伝えた。

(すぐに珠月様の仕業だと気付いた。あたしが平和に生きていけるように、手を回していたんだ)

 文字の読み書きを教えたのも、逢の世界を広げたのも、どれもこれも、珠月は自分自身の死が近い事を悟っていたからだった。彼は、逢の時間を先が短い自分の為に使わせる事に罪悪感を抱いていた。

(家族の元を離れた時だって、あんなに心が張り裂けるような悲しみは感じなかった)

(珠月様の傍にいたかった。一緒に生きたかった。お世話をすることが苦痛だなんて一度も思わなかった)

(優しい珠月様が、離れに閉じ込められたまま独りで腐って死んでいくのは耐えられなかった)

(だから——ずっと一緒にいられるように、一緒に生きられるように、強く願ったんだ)

 その時初めて、逢は珠月の中にいるサンに気付いた。朽ちかけているはずなのに、凄まじい神気を放っていた。

 蚕は、依り代にした少年と、その少年に仕えた少女を巫覡と捉え、神様と呼ばれていたことを思い出したようだった。

(音が聞こえる……。襖の向こうから、皮を食い破り、骨を噛み千切る気配がする)

(珠月様を治すと言ったあの人は、医者なんかじゃなかった)

(珠月様が苦しんでいる)

(羽化を止めないと)

(あたし達の成長が止まったのは蚕の巫覡になったから? 蚕にとって、巫覡は眷属と同じだったのかもしれない。どっちにしても好都合だ。珠月様が羽化してしまう前に研究を完成させる)

(完成すれば、サンは消えずに生まれ変わる。珠月様が悲しまずに済む)

(あ、れ?)

(あれは、何の為の研究だっけ?)

(頭が痛い)

(また全部忘れてしまう……)

(忘れちゃいけないことなのに、忘れてしまう……。嫌だ、やだやだやだやだ! これ以上あたしから奪わないで!)


消えた記憶

「気が付いた?」
 逢が目を開けると、四辻は安堵の表情を見せた。

 逢は目を瞬かせた。何も思い出せないが、四辻の顔を見ると、無性に懐かしい気がして、悲しい気持ちでいっぱいになって、涙が零れた。

「怖い思いをさせてごめんね。でも、よかった、戻ってきてくれて……」

 涙を拭って起き上がろうとした逢は、首に鈍い痛みを感じて指で触れた。絆創膏が貼られている。指を見れば、血が付いていた。

(あたし……自分で、血が出るほど引っ搔いたの?)

「おみとしさまが、君の精神に干渉したんだ。まさか睨むだけで祟りを起こすなんて……」

「あたしが見たあれは、おみとしさまだったんですね……」

 照魔機関が有する怪異の記録は、調査官による調査報告書だ。怪異に纏わる伝承を解析する為、調査官は命懸けで情報を収集するが、それが完全な記録とは言い切れない。いつだって、例外は存在する。
 特におみとしさまの場合は特殊だった。外から来る怪異を嫌う為、怪異を村に持ち込んだ時の検証は行われなかった。その為、みとし村に入る前には、怪異の気配を可能な限り消すようにマニュアルが作成された。

 怪異である四辻とその巫女の逢がこの村に入ったらどうなるか、機関はおみとしさまの行動を予測できず、二人の安全は保障されなかった。

「対策はしたつもりだったんだ。この村に来る前、僕と君、それから運転手さんの住所をみとし村に移した。
 現代のおみとしさまは村人に危害を加えないから、祟りから逃れられると思ったんだけど……完全には逃げられなかったね……」

「でも、そのおかげで軽傷で済んだみたいです」

「おみとしさまが人間の精神に干渉する為には、人間に自分自身を見させることが必要と聞いていた……。だけど、あれが本気で人を祟れば、ただ睨むだけで、認識くらいは簡単に書き換えることができるみたいだ……。ごめんね……僕の注意不足だ」

「四辻さんの所為じゃありません」

 逢は遠くで頭痛を感じながら起き上がると、四辻に向き直り、深く頭を下げた。

「ごめんなさい。捜査官として、自分の身は自分で守れるようにならないといけないのに……」

「顔を上げて」
 四辻は逢を安心させるように微笑んだ。
「逢さんが無事でよかった。待たせてごめんね。おみとしさまとの話は時間がかかるんだ」

 そう言って辻に置かれた石を一瞥し、深い溜息を吐いた。

「さっき言ったとおり、おみとしさまは、たくさんの霊の集合体。縄張りを守るという執念で結び付いているけれど、言う事成す事は支離滅裂で、なかなかこっちの質問に答えてくれなくてね」

「じゃあ、聞きたかったことは……」

「なんとか聞き出せた。答えは……『いいえ』だったよ」

『いいえ』は、霊がこの村に住み続けていた人間ということを示す。

「……容疑者が増えちゃいましたね」

 この村の歴史を遡り、可能性がある人物を探し出さないといけなくなった。しかも、おみとしさまの祟りと、霊の奇襲を躱しながら……。そう考えると、逢は暗い気持ちになった。

「大丈夫? まだ祟りの影響が残っているのかな。少し休憩しようか。しばらくは、おみとしさまも襲って来ないはずだし」

「何かしたんですか?」
「ん、ちょっとね。噛みついてやった」
「封印も解けてないのに、無茶をしますね」

 苦笑した逢は違和感を感じて、自分の腰の下に目を向けた。四辻の上着がレジャーシート代わりに敷かれていた。

「ごめんなさい!」
「気にしない、気にしない。どうせ埃塗れだしね。それより、空を見てごらん」

 見上げれば、満天の星が広がっている。街灯も民家も少ない村だから、僅かな星の輝きさえ明るく見える。

「星が綺麗ですね?」
「だね。昼に降った雨のおかげで、空気が澄んでよく見える」

「……」
「……」

「えっと……」
 逢はてっきり、今後の捜査についての提案があるものと思ったが、四辻は一向に話を進めようとしなかった。

「四辻さん?」

 視線を夜空から四辻に戻すと、彼は逢を観察するように見つめていた。

「この村での仕事を思い出す時はさ、あんな目玉じゃなくて、この星空のことを思い出しなよ」

 その言葉で逢は、四辻がおみとしさまを見せてしまったことに、強い罪悪感を感じているのだと気付いた。

「……平気、ですよ。だってあたし、きっとすぐ忘れちゃいますから。いつも、そうですから……大事な事も、全部」

「辛いことばかりを思い出すよりは、全部忘れていた方がいいんじゃないかな……」

 四辻が零すと、逢は酷く傷ついた顔を彼に向けた。

「嫌ですよ……。ずっと、心の中に穴が開いているんです。ヘラヘラ笑った楽天家だって思ってるんでしょ? いつもいつも、誤魔化してるんですよ。笑ってないと寂しいんです。大事な思い出全部、簡単に無くなっちゃうから」

 視線をノートに落した。今の逢にとっては、手書きのノートが記憶そのものだった。
 人生に関わるほど大切な事を忘れてしまっても、忘れた事にすら気付けない。しかし、自分の筆跡で書かれたノートを読み返すことで、それが確かに自分の体験した出来事なのだと、理解する事ができた。

「体に染みついた分析技術だって、いつか抜け落ちちゃうかもしれない。ノートにだって、書き切れないことたくさんある。数秒前の会話すら噛み合わないのに……。それなのに……どうして四辻さんは、あたしを巫女として傍においてくれるんですか?  あたし、迷惑をかけっぱなしで……相棒なんて、絶対に務まらないのに……」

 逢がイレイザーを打たれてから、四辻は初めて彼女の心に触れた気がした。
 ここにいる逢は、彼の知るアイを知らない。普通なら、忘れた事にすら気付けないはずだ。だけど、彼女は忘れたことを覚えていて、悲しんでいる。

(ずっと、思い違いをしていたよ。君にとって過去は、辛いばかりじゃなかったんだね……)

 逢を慰めるように、そっと背中に手を触れた。

「何も思い出せないと言うけど、君は自分が思っている以上に、たくさんのことを覚えているよ。それに、とっても優秀だ。神無四辻の相棒は、逢さんにしか務まらないよ」

 背中に降れた手に、少しだけ力が籠った。
 これ以上思い出させたら、記憶が消えてしまう。分かっているはずなのに……やるせない。

 しばらくして、逢が落ち着きを取り戻したことを確認すると、

「あの家について、ご婦人方から聞いたことを共有しておこう」

 そう切り出した。


痕跡

 大野家の前の持ち主は、トミコの母親、池柁すゑ子だった。トミコには精神的な問題があり、家に引き籠ることが多かった為、老いた母親が面倒を見ていた。

 しかし、一年前にすゑ子が亡くなり、トミコは一人になった。彼女の兄、恵吾はトミコを呼び寄せようとしたが、彼女は応じなかった。

 そして半年後のある日、トミコが首を吊って亡くなっていたのを、近所の人間が発見した。

「恵吾さんは、トミコさんが亡くなってから、すぐに家を売ろうとしたようだ。余程早く忘れたかったんだろうね」

「よくそこまで詳細に……。ご近所さん達、何でも知ってますね」

「トミコさんは、悪霊になってしまったけどさ……。あの家には、何もなかったよ」

 捜査した結果、池柁トミコは天井下り事象と無関係だと、四辻は結論を出した。しかし、逢はまだ、あることが引っかかっていた。

「呪いって……どうして、そんな噂が流れたんですか? ボイスレコーダーに記録されていた村人の暴言は、あの家の近所に住む人達に向けられたものでした……。
 ご近所さん達が事情を知っていたのも、家の中を覗いたりしたのも、一人になったトミコさんを心配する気持ちがあったからじゃないんですか?」

 四辻は少しだけ目を伏せ、

「さっきは、村人の手前、ああ言ったけどさ。……おみとしさまが辻に目を置いている理由は、縄張りを守る為だけじゃないよ。
 あの神は、村の中に目を向けて、人間を観察している。村人だった頃の気質を、引き継いでいるんだよ」

 タブレッドを逢に差し出した。

「この村の因習について、閲覧許可が下りた。トミコさんが亡くなった本当の理由は、これだよ」