あの淵の底で—— 第3話(全5話)
奇妙な来訪者
12月13日 怪しい男女
12月13日 夕方
あれから仕事が全く手に付かず、上司に相談して休ませてもらっていた。理解のある職場で助かった。
俺と妻はこの2日間、ずっと息子の治療方法や費用の事などを調べ続けていた。だけど、お見舞いには妻だけで行って貰った。妻は俺にも来て欲しそうだったが、理由を付けて断り続けていた。
息子の中にいるあいつと会うのが、俺は怖かった。
テーブルの上に出しっぱなしになっている資料は嫌でも目に入る。息子が治せるなら、どれだけ金がかかっても構わない。でも果たして、医者に息子が治せるんだろうか。
俺は、自分の罪を息子に押し付けて逃げようとしているんだろうか。
カーテンの閉め切られた部屋は、洗濯物の湿気のせいか息苦しい。ベランダが妻の買ってきた鳥避けグッズに占領されているせいで、外に干す事ができない。
家に居るのが、妻と話すのが、苦痛になってきている。そんなはずないのに、弱っていく妻を見ると、この状況を作ったのは俺だと責められているような気がした。
玄関のチャイムが鳴った。妻が鍵を忘れたのかと思って開けようとしたが、ふと思い直して、ドアスコープ越しに来訪者を確認する。ドアの向こうに、スーツに身を包んだ栗毛色の髪の若い女が見えた。警戒心を解くような柔らかい笑顔をしているが、おそらくは訪問販売だろう。
居留守をしようと決めたとき、ドアの向こうの景色に異変が起きた。
女の姿が消えて、琥珀色の巨大な目玉が現れた。思わず悲鳴をあげ、尻餅をついてしまった。
「知ってました? ドアスコープって、外からも覗けるんですよ」
若い男の声が聞こえた。どうやらこの目玉の主は、ドアスコープ越しに部屋の中を探ろうとしたらしい。
外の気配を窺うと、何やら揉める声が聞こえてきた。
「四辻さん、ドアから離れてください! 失礼でしょ。何しに来たと思ってるんですか!」
この2人の目的は何だか分からないが、相手が人間だと分かると急に腹が立ってきた。
「帰れ! 警察を呼ぶぞ!」
「通報していただいても構いませんがね。息子さんのことで、何かお困りじゃないですか? 伸一さん」
息を呑んだ。
部屋の中を覗いてきた男は、どういう訳か俺の名前と息子が倒れたことを知っている。
男はさらに驚きの事実を口にした。
「医師には治せませんよ。だって意識障害を起こした原因は、あのベランダにとまった怪鳥にあるんですから」
「あんた、何を知ってるんだ」
ドアを開け、男と対面する。男は思っていたよりも若く、20代前半くらいに見えた。灰緑の髪に琥珀色の目という奇抜な見た目をしているが、不思議とコレはそういう生き物だと受け入れてしまう自分がいた。
男は何かを確信したように笑みを浮かべ、話を続けた。
「やはりそうでしたか。ここに住む人達に聞いたんですよ、息子さんが救急車で運ばれたって」
「それだけで、全部分かるのか?」
「ご存じと思いますが、11日の朝から夕方にかけて、この住宅街では怪鳥が飛び回るという怪奇現象が起きました。しかし、その日の夜から捜査を始めた僕達を含め、12日の午後まで怪鳥を見た人は誰もいません。つまり、11日の夕方に怪鳥は目的を果たして消えたと考えられます」
ふと、11日の昼に妻から来たメッセージの内容を思い出した。
「変な鳥が飛んでるみたい」
もしかすると、最初に変な鳥を見たのは妻や息子じゃなくて、妻はこの地区に住んでいる誰かから話を聞いて、怖くなってメッセージを送ってきたのかもしれない。
そうぼんやり考えていると、今度は女の方がノートを確認しながら口を開いた。
「鳥の目撃情報を地図に書き込むと、中心になるのはこのマンションです。ここに救急車が来た時刻以降、怪鳥の目撃情報は途絶えています」
「決め手はコレです」
男はそう前置きして、手に持っていたキラキラ光る捻じれた棒状の物を見せてきた。
「鳥よけグッズ?」
「外からこのマンションを見た時、この部屋のベランダだけ、異様に鳥よけグッズが置かれていたのが気になりました。しかも、どれも同じように新しい。だから思ったんですよ。この部屋に住んでいる人が鳥を酷く恐れているのは、ベランダに怪鳥がとまったからではないか、と」
彼らはベランダの様子と住民の証言から、怪鳥と息子を結び付けたらしい。
内心驚いていると、男はさらに言葉を続けた。
「この2日間、僕達は怪鳥についての捜査を行ってきました。すると、ここから遠く離れた深山市と怪鳥の間に繋がりが見えてきたんです。伸一さんは深山市の出身ですよね。どうか少しだけ、お話させていただけませんか」
彼らを家の中に入れることにした。
男は、四辻という名前らしい。女の方は彼の相棒で、逢というそうだ。彼らは怪奇現象を捜査し、原因を特定して取り除く仕事をしていて、この街には怪鳥の捜査に来たらしい。
南淵付近で頻発する事故について
「南淵をご存じですね。あそこ、今は心霊スポットになっているそうです」
部屋に入るなり逢がノートを開いて見せてきた。
12月10日 午前10時過ぎ。
南淵付近を走行中の車が単独事故を起こした。運転手は「自転車に乗った子供が車道に飛び出してきたから驚いてハンドルを切った」と供述しているが、ドライブレコーダーにそれらしい映像は残っていなかった。
警察によると、南淵付近で単独事後が起きたのはこれが初めてじゃないらしい。以前にも何度か起こっており、一番古い事故は30年も前になる。事故を起こした運転手は必ず「子供が飛び出してきた」と話すとのこと。
「この怪奇現象は、再現なんじゃないでしょうか」
四辻が口を開いた。
「30年ほど前に、あの淵の近くで実際に事故は起きていました」
彼は言葉を切り、俺に視線を向けた。その鋭さに寒気を感じる。
「その時亡くなったのは、あなたの双子の弟の、伸次君だったそうですね」
彼は全部知っているんだろう。あの時、あの場所で何があったのか。
しかし、彼はそれ以上事故に触れず、不思議な事を聞いてきた。
「事故の後、弟さんは見つかりましたか?」
「ああ、南淵に浮いていたのが見つかった。火葬されて、骨が墓に入れられたのも覚えてる。でも化けて出るって事は、恨みがあるって事だよな」
最後の一言は、自然と口をついて出てしまった。心のどこかで、断罪されることを望んでいるのだとようやく気付く。
「凄いな、骨まで再現するのか」
何か妙な事を呟いた四辻の頭を逢が叩いた。
取り繕うように咳払いをして、四辻は話を続けた。
「あの淵、立地的に南にあるので、地元の方は南淵と呼んでいるようですが、正式名称はご存じですか?」
「南淵の本当の名前? たしか——見繕い淵だったような」
「昔から、淵には妖しい伝説が付いて回ります。たとえば、牛鬼、河童、椀貸伝説などがありますが、見繕い淵も例外ではなく、風土誌に伝説が記載されていました」
四辻はタブレッドを差し出してきた。画面には、昔どこかで聞いた淵の昔話が表示されている。
「この話を始める前に、怪奇現象の裏には怪異という超自然的存在がいるということをご理解ください」
その後に続く言葉は信じ難いものだった。でも、どこか納得している自分がいた。あの朝、淵から引き上げられたのは、やっぱり俺の弟じゃなかったんだ、と。