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作品に接することについて、木下晋に触れて

 ごきげんよう、仏秋(ふつ しゅう)です。
 予定では今回ゴットファーザーパートⅠの二回目を書く回なのですが次に延期して、最近感じたことについてまとめておきたいのです。これを読んでくださる方にも、これから書くことについて考えてもらえば書いた手間が浮かばれます。

 さて、前回まで計四本のnoteを上げておきましたが、読んでくださった方々、本当にありがとうございます。駄文につき誤字脱字がございましたら、本当に申し訳ございません。今でも、読み返して修正を加えております。あほです。

 四本のうち一本は自己紹介の文章なので例外でございますが、レビュー、エッセイ、小説の三本です。これは私の創作物、口はぼったいですが作品です。このnoteのサイトに訪れ、この記事を読んでいる人はもちろんnoteの中で他の人の作品を読み、その何割かは作品を作っていることでしょう。そのうえさらに、様々な創作物である作品に触れていることでしょう。音楽、小説、詩、陶芸、彫刻、演劇、映画、建築、グラフィックデザインにアニメなど、数限りなく触れているしょうし、このページにたどり着くまでに触れるホームページ上の宣伝デザインも含め、人が手を加えた物を作品としたら、触れないで生活することができないはずです。

 ただ、わたしたちは作品に接することについて考えて、見ているのでしょうか。例えば、わたしは小説、映画を主な娯楽とするものですから、そのジャンルの作品を楽しむわけです。それは、小説であったら内容の娯楽性、文体、そこに描けれている世界観に心酔すること。映画であれば、小説同様の娯楽性、監督の意図、俳優の演技など、それぞれの作品において着目する点は数限りがないのです。

 しかし、その作品に触れる態度はどちらかと言えば、作品を分解して理解し、征服しようとする態度であるような気がします。もちろん、作品に触れこころが、雷に打たれたような作品や、なんだか話が暗くてもやもやしてしまうウィストリバーのような作品もあります。しかし、それでも小説や、映画はその商業的な性格から多数の人に見せてもらう必要から、作品中にはさまざまヒントを隠し、暗喩や換喩、引用や設定に至るまで伝わりやすく、理解してもらえるように詰め込んであります。もちろん、わかりずらかったり、そういう意図をぶち壊す作品はあります、ダダとか、シュールレアリズムなんかはそうですが、それも一種のコンセプトです。

 ですから、今では一作品に対して沢山の解説がなされます。手頃なところではyoutubeのジャンクな素人解説から、youtubeではないですがnoteで似たようなことを……。研究者による解説。もちろん有名な作品に至っては研究書が出版されるほどです。本質的には、私たちはそれぞれの形式の中にある意味を理解したいという欲望があるのでしょう。それは、自然なことなようなです。ちなみに、わたしのnoteで一番読まれたのは、ゴットファーザーのレビューです。

 そこで、わたしはその作品に接するようことに関して、考えてしまう展覧会に行きました。それは木下晋の展覧会です。木下先生の作品群の多くは鉛筆による人物画、油絵、彫刻です。
 わたしはその展覧会会場に入り、作品一点一点を見ている間は画家のその技術や、構図、作品の大きさなどの外形的な情報を眺めて、すごいな~、と至って単純に考えていました。しかし、その作品の題材になっていたのは、作者の母、奥さん、瞽女、重度のハンセン病の作家がそのモデルになっていました。そして、あまり広くない展覧会会場を一周するとなんだか、怖くなって、その場から逃げ出したくなってきました。
 というのも、その作品はそのモデルのうちにある人の持つ尊厳と内面を暴露したようなものでした。しかし、その尊厳は人に降りかかる不条理に対して、立ち向かうわけでも、屈するわけでもない。その場に立ち、座り込む、あるいはじっとして動かず、ただその不条理を凝視し続けるような態度を感じてしまいました。
 確かに尊厳といえば聞こえはいいかもしれません。ただ、その不条理は、老い、差別、病気のような想像であっても目をそむけたくなってしまいたくなるものです。ただ、そこに写るのは画家が素描した現実の不条理であり、不条理からなんとかして人としての形を保ったという尊厳です。それは本来、芸術に昇華される以前に、個人が最大限に幸福を希求する個人や私たちが信じている社会から適切に扱われる尊厳を回復するに至ることが、日常を過ごす人ほどにはなかったことを尊厳と共に表現することでした。それを同時に見せつけられ非常に怖くなってしまったのです。臆病ですね。
 そして、私がさらに困惑したのは、それを素直に芸術作品としてすばらしい言えないところです。その作品に描かれた人々を人に何らかの影響を与える為の芸術として消化することに嫌悪感を抱かざる負えませんでした。そのような老い、差別、病気のような不条理は画家が人を理解し、人に影響を与える芸術の材料ではなく、世話を行い、病気を治し、不当な待遇から回復するために遅々として進まなくても、前進させていくべきものです。それを解消するために日々努めている市民がいるのも、また事実です。さらに作品内で表現される不条理が社会と地続きである以上、作品をただ素晴らしいものであると無条件に私には言えないのです。
 また、その意図を測りかねる事として、その絵画の表現する意図がそのような不条理を社会に暴露することや、訴えかけること、また画家自身が社会に変革を訴えかけているなどの意図が見えるのであれば、納得できるのです。ですが、一緒に行った人曰く、「作者は本人を理解するために書いている。」と、言っていました。それは画家の芸術至上主義によって作品の意図を質を高める材料にしているのであれば、私としては芸術性を評価するにも、先に不快感が立ってしますのです。
 ですが、困ったことに作品の質は恐ろしく高いのです。わたしにとってですが、その作品を見ることでここで書いたような疑問を起こさせ、作品のすばらしさを咀嚼しようと努め、芸術と社会の在り方についての悩みに陥ってしまっているのです。画家が描いた作品を見て、そのように感情を理性を喚起させたのですから、画家にとって、いやどのような芸術家にとっても歓喜しないではいられないでしょう。作品に対する批評性と批判性の両方を持つ作品は、本当に力のある作品です。
 どのような形であれこころを揺さぶられる作品にふれる体験は素晴らしいと信じています。本来、作品に接するとは、私自身がその作品を見て、感情を揺さぶられ、その高ぶりを理解するような営みを接すると言うのではないでしょうか。その点で言えば、木下晋先生の作品は素晴らしいものです。これからも沢山の作品に触れていきます。そして、このような経験をすることを半分楽しみに、そして残り半分を怖がりながら生活していくのでしょうね。



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