はむ

敢えて生きる

はむ

敢えて生きる

最近の記事

竜宮城での生活について

世の中に理不尽はたくさんあるが、浦島太郎の被ったそれもまた甚だしい。 亀を助けた漁師が、そのお礼にと竜宮城で楽しい時間を過ごしていたが、家族に会いに故郷に戻ったら、現実では数百年が過ぎていた。その絶望感から開けるなと言われた玉手箱を開けてしまい、おじいさんになってしまうというお話。 竜宮城から帰ったとき、数百年が経っていた現実で、すっかり孤独の身になってしまった彼の喪失感は想像だにしない。細かい解釈や諸説は抜きにして、結構救いのない話だな、とずっと思っていた。 しかし、

    • 落書きのような文章

      タランティーノの映画といえば、暴力の描写が印象的だろう。とにかく人が殴られて、殺される。過度なほどの暴力。しかしその一方で、タッチは軽快だ。まるで、目の前の暴力を意に介さない。 何もかもすっかり笑い飛ばす、エンターテイメント性のある暴力。 その最たる例が『パルプ・フィクション』。拳銃を構えた黒服の2人組の殺し屋、腕に健全なボクサー、映画のアイコンたるミア・ウォレス。 映画のタイトルであるPulp Fictionとは、映画の冒頭でも説明されるように「くだらない作り話」だ。

      • 最近の変化(儚くはない)

        「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」 『伊勢物語』に登場する、在原業平の詠んだ短歌。 その記憶のほとんどを過去に置いてきた古文の授業だが、この歌はなぜか記憶に残っている。 現代語訳すると、「この世の中に、全く桜というものがなかったなら、春を過ごす人の心はどんなにのどかであることだろう。」という意味になる。 春が訪れ、人々が今かと心待ちにした桜も、いざ咲いてしまえばすぐに散ってしまう。桜の儚さに心穏やかでない人びとを見て、「桜がなければ、こんな気持

        • ニンジンを食べない余裕と、食べる気合い

          中高の同級生に、絶対にニンジンを食べない友人がいた。 食べない理由は2つ。「食べたくないから」と「ニンジンからしか取れない栄養素はないから」らしい。確か高校2年の頃だったが、それを聞いた時、賢いな~と、思わず笑ってしまった。 確かに、食べたくないのなら、十分食べない理由になる。簡明な理由だ。 さらに、ニンジンは栄養たっぷりだという意見にも反駁する。ニンジンからしか取れない栄養素なんてないのだから、別の野菜で補えばいいだけだ、と。 なるほど栄養が目的なら、手段はニンジンでな

        竜宮城での生活について

          偶然性に帰責したくなるような寂しいお別れ

          大学生になってから、ほんの一度だけ話したことのある人の数の多さに驚く。 友達の紹介や授業でのディスカッション、なんとなく参加してみたよくわからない会合。 こういう場で出会った、多分もう会わない人たち。話すと結構盛り上がったりして、仲良くなれそうだと思った人も多かったかもしれない。だけど特に仲の深まることはなかった人たち。 人との出会いって、ちょっとした選択や思い付き、幸運や不運の産物だと思う。 深く関わるかもしれなかったけれど、結局は深く関わることのなかった数多の人間に思

          偶然性に帰責したくなるような寂しいお別れ

          有り得た世界に唇を噛まないこと

          お気に入りのフレーズを二つ。 “The proof of the pudding is in the eating.” (プディングの味は食べてみないと分からない。) “Life was like a box of chocolates. You never know what you're gonna eat.” (人生はチョコレート箱のようなもの。開けてみないと分からない。) こんなオシャレな言葉を話してみたい。 このフレーズはどちらも、人生やってみるまでは何事も

          有り得た世界に唇を噛まないこと

          どこかの誰かの人生に思いを馳せてしまう

          人の痕跡に、心を奪われることがある。 古本に書かれたメモ書き、「今〇〇人がチェックしています」と表示された予約画面、電車の座席に置いて行かれた忘れ物 姿かたちは見えないけれど、確実に存在している/していたという生々しさ。その生々しさを無視できず、つい想像を膨らませてしまう。 -きっとこの本の前の持ち主は、知的な女性に違いない。大事な描写には線を引いている。丁寧な字で、書き込みまで。 -今は夜中の2時なのに。同じ予約画面を睨みながら、旅行の計画を練っている人たちはきっと僕と

          どこかの誰かの人生に思いを馳せてしまう

          note、はじめました

          冷やし中華はじめました、みたいな。 自分の感じたことを文章にしたことって殆どないかも知れない。 SNSは嘘か虚構だし、卒業文集もお茶を濁したし、頑張ってつけた旅行日記だって事実の陳列になってたし。 思えば、何かにつけて自分を開示できない弱さがある。 生活感をさらすのを嫌って、飄々さに憧れてきた。頑張ってる姿は見せられなくて、万能で多才な自分を夢想する。人前でも、感情を吐露するより、「一定の機嫌」を守って接する方が楽だったりする。 自分の底が見える感じがして、それを晒すのが

          note、はじめました