一日も早く、私は死にたい

 私がこれまで、何をしてきたのか。どのような人生を歩んでいたのか。この機会に話そうと思う。何のためか、それは何を隠そう自分自身のためだ。虫が本当に五月蠅い。

 私は三蔵と千恵の間に生を受けた。父は厳しく、絵に描いたような頑固者だった。母は働き者で、私の世話は年の離れた姉の佐恵子がしてくれていた。姉の事が大好きでいつも笑って騒いでいた。父は大工として働き、母は工場で糸を作っていた。両親が仕事で遅くなると、佐恵子のご飯が出てくる。何品かおかずが出てくるが、どれもこれも味が薄いか濃いかで白米で調整する必要があった。私が一人で学校に行けるようになった頃、姉は学校が終わってから夜遅くまで働くようになった。これだけ働いても貧乏だったのは、父のお金遣いが荒く酒や賭け事、カメラにとことんお金を使っていたからだ。それでも私は幸せだったと思う。なんせ日本の景気が段々と良くなり、簡単な仕事をするだけでお金が入って来た。私も学校を卒業して、近くの大きな工場へと就職した。働けば働くほどお金が入り、何よりそれが楽しかった。上司や同僚との関係は良くなかったけれど、それを我慢できるほどのお金が手に入った。気が付けば三十代になっていて母から結婚はまだかとせかされた。姉はすでに結婚し子供を五人残していた。母が手配したお見合いでは、相手は私の事を二十二だと知らされていたようだった。今思えば当時そういう事はよく耳にしていた。母の目論見通りそのまま私は平という男性と結婚する事になった。また虫が湧いた。殺虫剤をまかないと。
 徐々に景気が悪化していっても、平と私は働き四人の子供を育てた。家があった村にダムが出来ると言われ引っ越し、仕事も農家へと変わった。毎日忙しい日々を送っていたが、海外旅行は二年に一度は行っていた。あの時の思い出は今でもよく覚えている。十ヵ国は行った。一番好きだったのはイタリアだ。あの日の事は写真を見なくても涙があふれてくる。観光名所の……。観光名所を見ていた時。そう、あの時地元の人が……。
 孫ができ、畑を手伝ってくれるようになった。楽しかった。近所の人も良くは働くと褒めていた。でも、何度言っても覚えないしこなせない。これはこうするのが良いと教えても絶対にそうしない。あの子たちは本当に出来損ないだ。嫁も働きには来ない。どういう育て方をしたらああなるのか。私にはまったく理解できない。私は毎日四時に起きて水を撒き、草をむしってそれから朝市に出掛けていた。あの子たちが来るのは私が朝市に出掛けてからだ。それでなんの仕事が出来るというのか。まったく甘えている。また虫がいる。何匹か殺したけれど、どこから湧いてくるのか。
 どんなに大変なことがあっても、畑仕事は止めなかった。腰が痛くても、次の日には治った。膝が痛んでも次の日には治った。私は強いから、病院に行って痛み止めを飲めば治る。辛いとは思わない。ずっとここで働く。
 その少し後、あのろくでもない孫の名前が書かれたハガキが届いた。裁判所からだった。何やら財産差し押さえの期間が迫っているそうだ。あのふらふらしている孫ならやりかねないと、仕方なくお金を振り込んだのに。孫は血相を変えて家に乗り込んできた。せっかく助けてあげたというのに、この虫もきっと孫が意地悪してきているのだろう。
 昨日孫が生まれた。今日は孫が木曜日なのに居る。孫は学校に居る。今日は輪投げの日。あれは子供だましだ。そうだ、ナスを収穫しないと。孫に肥料を買って来てもらおう。おじは今日も居ない。腹が減った。ご飯が目の前にあるけど、もうお腹いっぱいだ。朝なのに星がある。テレビに虫が映っている。孫が家の中に居る。孫が家に入って来た。また窓に虫がついている。

 そうだ、思い出した。私の最後の願いを。父と母が大事に育ててくれた事を。姉が好きだった事を。年齢を偽っていたとしても愛してくれた平との生活を。楽しみにしていた海外旅行を。孫が一緒に働いてくれたことを。私の事を世話してくれていることを。私は私を忘れない内に、一日も早く死にたいのだ。


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