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書くことは解像度をあげること

今日は、書くことがない。


そう思ってとりあえずnoteを開くと、書きたいことが出てきた。
たとえば、この前やった哲学対話とか、最近やってる自分の振り返りとか。

それなのにnoteを開くまで「書くことがない」と思い込んでいた。


危ない危ない。
これでは全く事実の認識が変わってしまう。

今日は「書くことがない」日だったのではなく、
疲れて「書く気力がない」日だっただけなのだ。


これと同じようなことがあったなことを思い出した。
かなり追い詰められている時期で、「(研究において)何もしなかった」と思い込む日が続いていた。
それが積もりに積もって、ついには「私は研究に興味がなかったのだ」に変換されるようになった。

こうやって振り返ると、論理の飛躍も甚だしい限り。
だけど、大真面目にそう思っていた。それくらい認知の影響は大きいということ。

あれは「何もしなかった」のではなく、「する気力がなかった」だけだったのかもしれない。少なくとも、そういう捉え方もあるという余白を持っておくことは必要だった。
だって、その捉え方さえあれば、
負のスパイラルを解決するには、まず「気力」を養う必要がある(=休む)
ってことに気づけたのだから。



気力がないといいつつ、結局今日も書いた。
気力が「ない」の気づきもいいけど、
気力は「やっていると湧く」ってのも覚えておきたい。

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