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義父が亡くなる1年前に奇跡が起きたこと


[にあんちゃん 十歳の少女の日記]
安本末子著によせて

人の一生って不思議なものですね。
ろうそくの炎がつきる前 突然赤々と燃え上がり 一瞬にして燃え尽きてしまうような人生の終わり方をした  義父のことをお話ししたいと思います。
私達が結婚したての頃 義父は一冊の本を私に見せてくれました。本の名は[にあんちゃん] このにあんちゃんは当時 僕 (義父)が担任していた子だと しかもすべて実名で書かれてあるんだ と言われ 本の中の 義父の書かれているところだけ確かめ 本を閉じたような気がします。それから何度か町をあげて にあんちゃんブームは有りましたが 私はその頃は さほど関心を示しませんでした。ここで [にあんちゃん]の本のあらすじを簡単にお話しします。昭和十八年
佐賀県東松浦郡入野村(現在唐津市)で作者安本末子は産まれます。母を3歳 父を小学校三年生の時に亡くし 長男.喜一(東石)長女吉子 二番目の兄(にあんちゃん)高-  末子の四人兄姉だけで生きてゆくこととなりました。本籍は 韓国全羅南道宝城群 元は由緒ある両班の出でありましたが 没落し昭和二年日本に渡り炭鉱労働者の職を得て働いておりました。当時北九州一帯は石炭産業で沸きかえっており 明治以降鉄道網の広がりと共に敗戦後の復興を一手に担っておりました。ここ(肥前町)大鶴炭鉱も最盛期には四千人もの人が働いておりました。苛酷な労働により 母を亡くし父をも亡くしております。
末子の日記は 父が亡くなり四九日の喪明けから始まっております。両親を亡くし 臨時炭坑夫の長男の稼ぎだけでは 大海に投げだされた 小舟のようなものです。しかし貧しさに負けず真っ直ぐな心を持ち 兄妹が支えあって生きて行く姿を ありのままに綴った末子の日記は 重版を重ね60万部を売り上げる一大ベストセラーとなったのです。NHKラジオでの子供向け朗読に始まり 極めつけは やはり 今村昌平監督作品の[にあんちゃん]で火がつきました。こちらは にあんちゃんを中心に 兄妹愛を描いた名作映画です。ここでは 詳しくは書きませんが 昭和の原風景と石炭産業を巡る最盛期 から衰退する様子が にあんちゃん兄妹をとうして 感じ取ることが出来ます。一度 この映画を皆さんにもみて頂きたいものです。黒澤明の[生きる]にも負けない 傑作だと思っております。兄は 炭坑を解雇され 間借り家を転々としますが 最期は炭焼小屋に住まうようになり どうにも生活が立ちゆかなくなって行きます。そして 末子が中学生の頃 神戸に移り住みます。長男喜一が船の沖流仕をして一家を支えますが 胸の病気を患い 苦しさの中 いつも末子の書いた日記に勇気をもらい励まされていたことを思い出し この日記を世に出したいと出版社に持ち込みました。最初は出版社に留め置かれ 忘れられておりましたが 社長の「そういえば あの子供の書いた日記はどこにある」の一声で 読み返され日の目を見ることとなりました。運命が動き出した 瞬間でした。特に教育現場で取り上げられ 兄妹愛の美談として一躍有名になり 末子のもとに6千通ものファンレターが届いたそうです。本の収益で兄の病気もよくなり にあんちゃんは後に 高校に通えるまでになり 慶応大学へ 末子は早稲田大学に進学を果たしました。二人とも大変な努力家ですね。
こうして安本兄妹は幸せを手に入れますが 代わりに世間の目にさらされるという不自由さも感じていたようです。
さて どうして義父の身に奇跡が起きたかと言う話に戻します。それは義父が亡くなる 1年前 今から15年前のことです。本当に偶然なのですが 私達は とある初老の
男性に「にあんちゃんの取材のため ある場所を探している」と尋ねられました。とっさに主人は 「僕の父は 当時にあんちゃんの担任でした しかも本に名前が載っております」と男性に告げました。男性は目を輝かせて信じられないと言った様子で 直ぐさま会いたいとおっしゃるので 老人施設に案内しました。よい話が聞けましたと 興奮気味に語られ後日 「これは読売新聞 文芸欄九州の名作を尋ねてに載ります 楽しみにしていて下さい」と一枚の名刺を下さいました。名刺には早稲田大学客員教授 乳井昌史と書かれておりました。九州の風土 景色と共に [九州の風に吹かれて] と題して一面を飾りました。
読みおえて まず驚いたことは 当時末子の担任だった 滝本先生が末子の日記をよんだ感想とばかり思っておりました箇所が 実は にあんちゃんの担任だった義父の 言葉だったことが 50年たったこの時 (取材)で分かったのです。ここは 赤ペン先生として有名な箇所です。
以下抜粋
「……家に帰ってきて、日記を開いてみると[日記六]と書いた帳面に、赤インクで書いた紙が出てきました。(略)「先生は、よるおそくまで読ませてもらいました。なみだにぬれながらね。まじめにこんきよくかいています。感心しました。毎日 毎日 の生活を反省しながら、一歩 一歩よい子になっているのが分かります。苦しい生活。さびしい生活。それは、ほんとうにつらいことです。けれども それに負けてはいけません……」
「先生が、私の苦しかった生活にみかたしてはげましてくださったので 暗い心が明るくなってきました」と綴っております。
本が出版されて 50数年目にして初めて明かされました。その後九州を一巡した文学紀行は一冊の本にまとめられ 題名「南へと、あくがれる 名作とゆく山河」乳井昌史著として出版されました。義母に先立たれ 部屋に閉じこもることの多かった義父の生活に久々の明るい話題に 気を良くしておりました。本を購入し当時の教え子や 知り合いに送り 我が家は正に にあんちゃんブームの中におりました。義父が明るさを取り戻した矢先 背中からみぞおち辺りに痛みを感じ病院で精密検査を受けました。答えは、末期癌 余命二ヶ月と宣告されました。束の間の喜びから一気に暗闇に突き落とされてしまいました。引っ込み思案の私がどうしてこんな大胆なことが出来たのであろうかと今になって思うのですが 終末病棟にいる義父に向かって FMラジオを通して にあんちゃんの本の朗読を届けたり マイクロバスに家族総出で にあんちゃんの里を尋ねたりしました。そして皆が見守る中 義父は逝きました。葬儀が終わり ほっとしていた私に 元義父の生徒だった方から思わぬことを知らされました。「にあんちゃんが中学を卒業し 進学しないことを知らされた 先生は(義父)大変残念がり是非とも進学させたいと 両親に自分の養子として迎えたい」と懇願したのだと 知らされました。 あいにく両親の猛反対にあい泣く泣く諦めたそうです。義父も戦後中国大連からの引き揚げ者 戦争が起きなければ 中国の子 ロシアの子 朝鮮の子と仲良く遊んでいただろうに 戦争という理不尽な暴力によって敵 味方に裂かれてしまいました。だからよけいに 心を砕いていたのでしょう。これも初めて聞くエピソードでした。亡くなる1年前の出来事 これが義父に起こった小さな奇跡 我が家のファミリーヒストリーです。最後に 末子の日記に戻ります。日記は 末子が
 目の病気で一ヶ月入院していた医院から退院した日までが書かれています。その最後はこう書かれておりました「家に着くと、兄さんも家に着いたばかりで「おかえり」と明るく言われた。兄さんてよいものね。自然に笑えてきた」

最後まで読んでくださりありがとうございました いろいろなnoterさんに押されて 書くことが出来ましたこと
お礼申し上げます
最後に にあんちゃんの担任だった頃の義父の写真を添えました。

理想に向かって夢を追いかけていた頃なのでしょうか




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