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読書記録「鈴木 涼美 /娼婦の本棚」


ものすごい好きな本について語るのは難しい。好きすぎて、書きたいことが多すぎてなかなか文章にまとまらない。(でも、書いてみた!)

中学生まで私は文学少女で、隙あらば本を読んでいた。しかし、高校生になってからぴたっと読まなくなってしまったのである。読書をしない習慣が身についた私は、大学生の頃もあまり本を読まなかった。
なぜ高校生から読書しなくなったのかというと、本を読むことがダサいと感じていたからである。スクールカースト的な意味で、教室で読書しているところを誰かに見られるのは嫌だった。この時期に本を読んでこなかったことが、今になってとんでもなく悔やまれる。
 鈴木 涼美の「娼婦の本棚」は、女の子に向けて本を読むことのカッコ良さを教えてくれる。前書きでは夜の世界に生きる女の子へ向けた読書案内だと書かれているが、ギャルでもなく夜の世界に程遠い私でも彼女の文章に痺れまくっていた。

18冊の本が紹介されているが、金井美恵子「夜になっても遊び続けろ」では、生きづらいと感じる若者と分かりやすさが求められている社会についてこのように言語化している。

「世間で単純に善悪とされていることを参考までに頭に入れておくことは処世の役に立ちますが、それが自分の持つ感覚と一致してしまってはまずい。むしろマスの圧力によって押し付けられる善悪の座標が、個人によっていかに書き換えられるか、その幅の広さを把握しておくために青春の時間は費やすべきです。」

鈴木鈴美「娼婦の本棚」より

青春と呼ばれる年齢の頃に私は、何に時間を費やしてきただろうか。
特別な自分になることを夢見ながら、常に周囲から外れないように神経をすり減らしていた気がする。(しかし、この時期に素晴らしい友人と出会うこともできた)
一生青春なんて言葉があるけれど、結婚適齢期と言われる私の年齢で青春と呼ばれる時間はどのくらい残っているのだろうか。最近は人に会ったり、気になった本を読んでみたり、文章を書いたり自分の座標探しをやっている今日この頃である。孤独感を感じることもあるけれど、いい時間を過ごせているとも思う。

 鈴木涼美さんが語るシオシニズムの世界も好きだ。井上ひさし「私家版 日本語文法」の回では、右に左に上や下にも高速で揺れ動く若い女の子の心について書いている。

「自分に特筆すべき独自性があるんじゃないかとか、自分は超生きづらいタイプの人なんじゃないかとか、若い時特有のオレオレオレ!という考え方が、なんか気のせいかも、と思えてきたのです。」

鈴木涼美「娼婦の本棚」より

シオシニズムと表現されてるが、説教や激励でもなく、現実を受け入れながら世の中を面白ろがる方法があることを私は彼女から学んだ。こんなに女の子の味方になってくれる本があるだろうか。
 
 更にジャン・コクトー「大股びらき」では青春の時期の複雑さが巧妙に描写されているジャックに対して、自由奔放に描かれているジェルネールについて以下のように語る。

「私はジャックからみて自由奔放で移り気なジェルメールを思い出す時、必ず女は女で、自分の面倒臭さや孤独と向き合って表現していくことの必要性を感じます。

鈴木涼美「娼婦の本棚」より

この一文で私は更に色んな小説を読みたくなった。人間の面倒臭さや、孤独、異性への憧れについてどのような言葉で綴られているのか、もっともっと知りたくなった。
「大股びらき」は最寄りの図書館に置いてないみたいなので、取り敢えずAmazonで買いました。



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