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選んだ孤独は・・・?

年明けに実家から関西に戻ってきてから、暫くの間は今までにない孤独感に頭がヒリヒリしていた。実はこの孤独感の正体は検討がついていて、家族がいる実家から一人暮らしに戻ったからというのと、生理前のPM何とかのせいだからである。というのも、生理が終わりに近づいた今、私の心は安定を取り戻しつつあるからだ。
加えて、孤独に耐えかねて集まりに顔を出して、運が良く気の合う人に出会えたことも孤独の解消に役立ったと思う。
 今思い返すと、なーんてっ薄っぺらい「孤独」だったんだ。
しかし、確かに「孤独」だった。その時は、自分と外の境界がぼやけていて、何をやっても満たされなくて、ぐらぐら、もやもやした何かに心も身体も蝕まれてしまうと思っていた。
 私は世間一般的には孤独ではないのかもしれない。世の中には、誰かと繋がりたくても、なかなか他人と相容れない人や環境のせいで一人ぼっちに陥っている人もたくさんいる。だけど、「孤独」の権利は、全ての人に平等に与えられているものだと思う。だから、私だけが可哀想なんだではなく、充実して見えるこの人にも孤独な瞬間があるかもしれないと思いながら接するのがいいのではないだろうが。ひどく不格好な考えだけれど、私は一人で生きるだことができない人間だ。一人で関西に移住して1年半、色んな人に生かされていたんだとやっと気づくことができた。誰かを必要とするなら、人に不快感を与えない格好や振る舞いを身に着けることも生きていく上で必要だと思う。(逆に世間への抵抗として、ぎょっとするような恰好をすることもそれはそれでありだと思う)

 引っ越す前、私は自分の生活にひどく不自由さと閉塞感を感じていた。不満感の影に隠れて、「孤独」の存在は目に入らなかった。当時は、須賀敦子や村上春樹、ヤマザキマリの描く自由で孤独な世界が羨ましくてしょうがなかった。山内マリコさんの小説の中の、パイン材でできた家具が置かれた部屋に憧れる女の子の話にはとても共感した。いざ、憧れた土地での生活をスタートし、行きたい場所や時間の使い方を選べる立場になった時、なんと、私の輪郭がぼやけて迷子になってしまったのである。本にある世界はきっかけであっても、それだけでしかないことが分かった。
だけどそれでよかったんだと思う。「孤独」に押しつぶされそうになっても、何とかそこから這い出すことを繰り返しながら生きていけることが、何となく分かった気がするから。
ある時は一生一人で寂しく生きていくのだろうかと悲観し、別の時には誰かと取り留めのない時間を過ごして、全然一人じゃないじゃん!と思ったりして、中途半端でいい加減すぎる自分に笑えてきたりする。
 暫くは寂しくなったら誰かに会いに行って、疲れたら家で本を読んで、昼寝をしていこう。
都会ってなかなかいい場所じゃないか。


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