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映画「ミッシング」レビュー(ネタバレ有り)

中1の長男が絶賛反抗期中である。最近反抗期が激しい子が減ったのは間違いないが、我が子には相当激しいものがきてしまった。機嫌悪そうにする時間が長く、妻や弟に悪態をつくことも多い。許される限り外出しては友人と遊んでいる。公園で話すかサッカーをするかが多いようで3回に1回はスマホを忘れていく。それでいて友人からの評価はそれなりに高いので、私がある種願っていた「男子の成長期」が到来したのであろう。

このタイミングで私があれこれ頭ごなしに言ってもあまり効果は無いだろう。心配しないわけでは無いが、向上心とバイタリティは感じられる。まあそんなエネルギーがあるうちは付かず離れず見守ることにする。

反抗期が来たら月に一度くらい連れ出して、私のお気に入りの音楽を車で流したり、一緒に映画を見たり、昔からの知人に会わせたりしようとずっと前から考えていた。そんな計画の元で今日は映画を見に行った。そして映画は子ども向きではないものと何となく決めていた。そんな父子映画鑑賞会の第1回としてミッシングを観賞してきた。

20年後くらいに息子が「いつからか親父が自分をたびたび映画に連れて行ってくれた。友人の間ではあまり話題にならないような作品が多かった。グロやエロもほどほどにあった。その後は母や友人とは行かないようなカフェや雑貨屋で何となく映画の感想を話し合った」こんな風にどこかでテキストにしたり述懐してくれたら親父冥利に尽きるw

そんな理由でnoteには時々映画の感想を書いていくこととする。

とある街で起きた幼女の失踪事件。
あらゆる手を尽くすも、見つからないまま3ヶ月が過ぎていた。

娘・美羽の帰りを待ち続けるも少しずつ世間の関心が薄れていくことに焦る母・沙織里は、夫・豊との温度差から、夫婦喧嘩が絶えない。唯一取材を続けてくれる地元テレビ局の記者・砂田を頼る日々だった。

そんな中、娘の失踪時に沙織里が推しのアイドルのライブに足を運んでいたことが知られると、ネット上で“育児放棄の母”と誹謗中傷の標的となってしまう。

世の中に溢れる欺瞞や好奇の目に晒され続けたことで沙織里の言動は次第に過剰になり、いつしかメディアが求める“悲劇の母”を演じてしまうほど、心を失くしていく。

一方、砂田には局上層部の意向で視聴率獲得の為に、沙織里や、沙織里の弟・圭吾に対する世間の関心を煽るような取材の指示が下ってしまう。

それでも沙織里は「ただただ、娘に会いたい」という一心で、世の中にすがり続ける。その先にある、光に—

映画「ミッシング」Story

とても重い映画だった。画面から思わず目を背けたくなる場面が3回あった。そのいずれもが石原さとみ演じる沙織里が狂乱する場面だった。イントロの数カットのみ娘の美羽が出てくるだけで、本編は駅前のビラ配りから始まる。その後もラストまで家族の団欒の様子はほぼ描かれない。これが焦りや怒りを周囲にまき散らす主人公に不利な設定となっている。美羽がいた時の「普通の母親」だった場面が出てこないので同情しにくいのだ。しかしそれがリアルだった。悲惨な事件の当事者や家族はその後の様子しかマスコミで報道されないのが常である。全編においてリアリティーにこだわっている作品であった。

序盤で娘の失踪にも一定の落ち着きと視野を示す豊に向かって沙織里が激しく罵る場面があった。この時の石原さとみの表情が以前の夫婦喧嘩の妻の顔とあまりに似ていた。また医療機関で子どもが「発達障害」と診断された塾生の母がその足で私を訪ね嗚咽を漏らしながら弱音を語っていった時の表情とも似ていた。国民的女優である石原さとみが人生をかけて新境地を開こうとする並々ならぬ女優魂を感じた。

夫である豊が素晴らしい。沙織里がいつも感情を露わにして、時に周囲の人を困惑させる中で、言い合いになる直前でグッとこらえ、妻の知らない所で冷静にビラを貼ったり警察と相談していたり、それでも同じくらいの親子の姿をみて涙を浮かべ、物語の最後では溜め込んだ感情が一気に溢れる場面がある。青木崇高を今後思い出すとき必ずこのシーンは頭に浮かぶであろう。

夫の豊。青木崇高の抑制された芝居が光る

美羽が失踪する直前まで一緒にいた弟の圭吾。はっきりと言語化はされていないが「発達障害」もしくは「グレーゾーン」として登場する。マスコミの取材を不自然に拒絶して、いざインタビューとなるとどこか要領を得ない他人事の発言で世間に怪しまれてしまう。その証言が要領を得ない理由の一つはその後同僚と違法カジノで遊んでいたからだ。職を失い2年ほど経ってまた大きなトラブルを引き起こす。鎌倉殿の13人で阿野時元を演じていた森優作。石原さとみとは違ったベクトルの怪演だった。

弟の圭吾。森優作の今後の活躍は追っていきたい

そして物語のもう1人の主人公と言ってよいテレビ局の記者の砂田。非常に真摯なテレビマンでメディアの力を使ってどうにか子どもの発見を達成しようと常に考えている。しかし新しい話題と絵になるニュースと視聴率に拘る上層部と同僚たち。その狭間で悩む姿は共感を覚えた。「メディアが一番悪い」「テレビは腐っている」「週刊誌の記者は人の不幸で飯を食って恥ずかしくないのか」現代人の多くがこれらの発言をしたことがあるだろう。私はこの意見からは一定の距離を置いている。彼らだって資本主義のルールの中で戦うビジネスマンだからだ。誰も見ない自己満足のニュースや映像を垂れ流しても仕方がない。受け手がそれを拒絶すればよいだけである。このマスコミの構図を深く抉った姿勢を評価したい。長男もこの部分が最も考えさせられたと話していた。

記者の砂田。中村倫也ってこんな演技もできたんですね

実際にメディアから離れたはずのSNSは今日も他人の失敗をあげつらい、他人のやらかしにインプレッションが数多く付く。それはテレビよりもテレビ的でワイドショーよりもワイドショーで文春よりも刺激的で同時に傷つける。

このSNSを見てしまって落ち込む沙織里の描写もリアルだった。劇中で4回くらいはそんなシーンがあっただろうか。子どもを放置してライブに行っていた母親。テレビに出ると演技だ何だと罵られる。子どもが死んで贅沢三昧をしているとデマをかかれ、その上虚偽の情報を寄せてくる第三者さえ登場してくる。

この映画の主題は「他人事」であると見終わった後に考えた。今日で能登の地震から5カ月。被災地は今も大変な日々であろう。しかし離れた地で暮らす私たちはどこかそのニュースに飽きている。子どもが失踪した夫婦はずっと出血している傷口を抱えている状態なのに、周囲はもうかさぶたになり感知してしまっているのだ。だから沙織里に言葉の刃が向かう。
しかしこの映画の凄さはこの「当事者」の二重構造にある。ビラ配りの際にどう見ても認知症を患っているかのような女性が登場する。商店街を歩く沙織里の横でスマホマナーの件で激しく言い争う男女が登場する。また沙織里が買い物に行ったスーパーでは「ヤクルト1000」が欠品していることを店員に詰め寄る女性客が出てくる。これを観賞中は「世知辛い令和の世」を表現しているのだろうと捉えていた。もしくは100の不幸を抱いた人間がそこにいるのに、10の不幸で激高したりよく分からない発言をしたりする人間のコントラストを描きたいのだと。
しかし見終わって数時間で気が付いた。これらの人たちに沙織里は(認知症の女性には豊も)全く反応しない。つまり事件の当事者であるこの2人も同時に傍観者であるのだ。それに気づいた時にこの映画の価値が更に高まった気がする。

もう1点気になった3か所の描写についても触れておく。沙織里が取材中に取り乱してしまった後で、思い直して砂田らが乗るバンの窓を叩き何かを訴えるシーン。テレビ局の取材を拒絶した圭吾がやっと車に乗った際に更にマイクを向けられて窓越しに激しく何かをいうシーン。社内の興味本位の報道を止められず上司にも綺麗事とあしらわれ劇中で唯一ともいえる怖い表情で何かぶつぶつ言い続ける砂田。全て何を言っているのかさっぱり分からない。エンターテイメントではなくノンフィクションに限りなく寄せた演出がそこにあった。

HPには「その先にある光に」とある。正直光は微かにしか感じられない。弟が長年抱えてきた痛みを知ること。壁の美羽の落書きに光を通して触れること。子どもたちの交通当番として交差点に立つこと。それらがわずかばかりの光なのだろう。100の不幸を3くらい埋められただろうか。97はなかなか埋まらない。そんなリアルを保ったままエンドロールとピアノの主題歌演奏が始まった。

長男云々ではなく、あまり今夜は眠れそうにない衝撃作だった。
次回はディアファミリーにしようと思う。毎回このノリは父子にはちょい重い。

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