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「楡家の人びと」ではないけれど

私は祖父を二人、一か月の間隔で亡くしました。二人とも天寿を全うしたといえると思いますが、二人がいなくなったことは、その後の私にとって次第に大きな衝撃となりました。衝撃というか空白ですね。どれほど重荷になっていたのか、次第に自覚するにようになったのです。

私の父は、東京郊外のある私大に進みました。戦前は商業学校だったところで、戦後の学制改革を受けて私大になったところです。父にはひとつ上の兄がいて、このひとは赤ん坊のときに養子に出されていましたが、とにかく兄弟で、仲良しでした。大学もいっしょで、一年先に卒業していったん地元に戻って、とある地元企業の東京支店に配属されたそうです。つまり東京に戻ったのです。父はというと、都内の旧財閥系企業に、部活動の先輩の口利きで入社が内定していました。健康診断さえ受ければいいという、超優遇です。部活動は武道系で、先輩たちにも気に入られ、成績もほぼすべて優という人材でした。

しかし私の祖父つまり父の父より、帰郷して地元企業の面接を受けるよう通達されて、戻ってきました。家を継ぐのは父の長兄なので自分は東京に残るものだと思っていたところに、事実上の跡継ぎ通告をされたのです。長兄は東京のある著名大学を出て、ある旧財閥系企業に入り、帰郷してそこの支社に配属されていましたが、父親つまり私の祖父とはしばしば衝突していたようです。それで私の父が呼び戻されました。その時の書簡が残っています。彼の筆跡は上品で、女性が書いたかのようです。恨み言はいっさいありませんでしたが無念の思いが行間に感じられました。

その数年後、私の母となる女性を見合いであてがわれ、これも逆らうことなく受け入れて、そして私たち三きょうだいが生まれてきました。母が嫁入りして、婿の両親が不仲でいつも板挟みになって神経が参ってしまったという話は前にしましたね。婿つまり私の父は、そういうことからは逃げ回っていました。

実は母は母で、自分の父親を嫌っていました。ある大きい紡績会社の事務員でしたが同時にブンガクのひとでした。地元新聞の川柳投稿欄の選者を務めていたようなひとです。彼の創作中は物音ひとつたててはならぬという家に育ちました。ちなみに母には弟がいて、つまり私の叔父となるひとですが、このひとがまた父親と同じで血の気の多いひとでした。母とは別に不仲ではなかったようですが、彼女にすればとにかく家を出たいと願っていたところに見合い話が来たので、会ってみて、父親とおよそ違うタイプの男性であることに安心して、いっしょになったのでした。

私が、二人の祖父つまり父の父親と母の父親があいついで亡くなった数か月後、自我の崩壊を味わったのも、今にして思うと、この夫妻がそれぞれ父親殺しをせずにやり過ごしてきたことへの、一大負債だったという気がしています。

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