嘆きの天使
昨日、父の遺骨をすべて墓石に収めてきた。すべて。京都・東本願寺には持っていかない。母の判断。三人でささやかな儀式。寒い晴天。
皆勤賞が廃れたのは、いいことだと思う。
ChatGPTの、今年頭に使ったときのやり取りが残っていた。今目を通すと、今のChatGPTに比べて、ことばはわるいけど博学な知恵遅れという印象を受けてしまう。 やり取りを長く続けるうちに、当初の話題をAIが忘れていくような感じだった。 今のバージョンはそこが改善されていて、そういうことが前に比べればあまり感じなくなってる。 町医者の心療内科(二軒目)にかかってて、数か月のブランク後、もうとてもこれ以上は前進無理と判断して、母に付き添われてここに行きました。 記憶があ
「普段から白と黒の着合わせで通しているからほかのものも試してみたら?」と衣服片付けをしている家人に、朝の陽ざしとともに言われて目からウロコというほどではないが面白いと思った。そういえば連日モノクロの夢で、ここ二日は色付き…だと思う。思い出せない。
兄ちぇの鳥人思想なるものは、勝ち続けないといけない宿命なのだそうです。一回でも戦でこけるとそこから崩れ落ちる。私が書きものをするとき、無意識にÜbermenschを夢想しているのだとしたら…疲れちゃうよね、そもそも男性用であるし。お笑い芸人の一番の恐怖はおそらく鬱になることか。
白人しか見かけないロビーともホールともつかない場所。白が基調。受付の方に英語で話しかけるが私の by the way の発音がおかしいらしくてどうしても通じない。にやにや笑いとともに歩き去られる。ほかのひとにも片言英語で話しかけるがさっぱり通じない。自分の発音はほかの日本語母語者たちにくらべればきれいな方だと思っていたので、この通じなさに戸惑う。 市の図書館一階、市役所、ウェブ動画広告で見かける外国の企業のオフィス、これらのイメージの混交か。図書館一階には国際課のオフィスと
居間の白いカーペットに、何か金属のフレームの白い機械がある。そこには白い生首が置かれていて、ときどきクルクル回りながら私に笑顔で呼びかけてくる。祖母だ。首を切り取って生命維持装置に据えたものだと即座に気づく。不気味に思いながらも私は笑みを返す。機器の横に人が横たわっていて、医療用の布が被せられている。祖母の胴体か。横たわったまま激しく上半身を持ち上げて、沈むことの繰り返し。人工呼吸器で呼吸させられているがすでに亡くなっている。首の方は機器とともに消えていて、身体がある。母がそ
血液検査と尿検査の結果は…問題なしでした。 「高血圧と体重がちょっと気になるねえ」と言われました。 後でよく見るとヘモグロビン濃度もわずかに少な目の値でしたが、医師からは何も言われませんでした。 特に異常はないよと言われた時はほっとしたのですが、その後、日差しのなかを歩いているうちにだんだん不機嫌になっていく自分がいました。 共感は頂けなかったなって。 何の共感かって? ずっと前のお話ですよ。指先が振るっていると言われたとき「ああこれまでだ、自分はもうこれ以上先には
ああ夢で良かったと目が覚めたとき思うような夢にうなされたせいか、寝床から起き上がる気分にない。あまり具体的に綴ると綴ったものに自分で引きずられるので夢の内容に絞って綴る。 モノクロ。夜設定ではないと思われるのにモノクロ。🚲に私は乗っている。どこかに行くつもりで、しかしどこに行こうとしているのかはわからない。途中でキャデラックに道を譲られる。運転手ももう一人も長身でセレブ系の男子黒人で日本式に頭を下げてくれる。私は母の実家に寄る。見つからない。前から半地下の雑居ビルと店舗がで
悪夢。夢でよかった。
キッチンのガスコンロが数日前から着火しないので電池を(けっこう苦労して)取り替えたら着火ボタンが動かない。取り換えの際にロックを作動させていたと気づいて解除。着火は…しない。点火プラグを取り替えないといけなさそう、しかしこれ取り替え式ではなさそうだし、当面マッチに頼るしかない。
>過換気により血液がアルカリ性側に傾き血管が収縮することにより血圧が上昇します。 過換気には不安障害やパニック障害を伴っていることも多く、その場合血圧が低くなることを難しくしている一因と考えられています。
〈私〉の輪郭を失い、失ったことを今度は輪郭にして再起を図った私でしたが、それも世間さまのまなざしの下では、しだいに色褪せ、期限切れを迎えていきました。 そういう目に実際に遭ったのではなく、自分の中でそういう感覚が少しずつ育っていったのです。 医学のお墨付きで、負債は帳消しにしてもらったとはいっても、それは通院中には有効なものであって、離れた後〈重度身障人の私〉はその輪郭を曖昧にしていきました。 曖昧になるがゆえに、私は癇癪を起し、荒れる日々を送りました。 荒れる自分を
ノーベル文学賞受賞記念講演で、日本の小説家が語った内容は、後に「美しい日本の私」として数日遅れで朝日新聞に全文が掲載され、新書と文庫となり、サイデンステッカーによる英訳版をはじめ複数の外国語版が刊行されています。 著作権が今も生きているので検索しても見つからない――と思ったらノーベル賞の公式サイトに載っていました。ウィキにある要約も紹介しておきます。 . 久しぶりに目を通してみて思った。明治の頭に、パリやベルリンやロンドンとかの万国博覧会に日本からも何か出品しないといけな
いろいろ嫌になっているので思い出話に逃避する。 カイロ整体の学校に通っていたとき、丸々はつらつとした男性が生徒にいました。 二十代半ばか後半だったか。スポーツジムのトレーナーさんで、そういう仕事柄か人当たりのいい方でした。 私と級友(5つ下)に、喫茶店で何か奢ってくれた覚えがあります。 私はその後この道が自分に向いていないと思い知るできごとがあって、色々あって大学病院で重症判定されて、自宅療養を言い渡されたのをきっかけに、以後その整体学校にはいっさい顔を出さなくなりま
軽く一礼してからあの山道を(ペットボトル片手に)上っていくおっちゃん。山頂でメール送受信。トイレでブツ紛失に気付く。麓トイレにもない。帰路ジャケットのポッケに見つける。いろいろと嫌悪。