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「ひいき」のチカラ

1.ひいきされた!

 私は高校時代に初めて「教師」からひいきされました。
 いまだに高校時代の友人たちに会うと、「A先生に、ひいきされていたよね~」とからかわれます。
 A先生は数学の先生。1年生から3年生までずっとA先生。3年間、変わらなかったのは、国語と数学だけ。あとは学年毎に違う先生。
 なぜか国語は好きになれませんでしたが(国語のB先生、ごめんなさい!B先生は大好きです。悪いのは国語です!でも、大学で「自分」の不思議さにぼんやりしたおかげで、今は文学が大好きで、そういう分野の展示も手がけています)、私はA先生のおかげで数学が好きになりました。

2.「非常勤の教師」

 A先生は自分のことを「非常勤の教師」と言ってました。
 たしかにA先生は、部活や担任をしていなかった。当時はよく考えませんでしたが、今、私はA先生がわざわざ「非常勤」という言葉を生徒に使っていた気持ちが分かります。 
 A先生は年度の始めになると、必ず「頭が痛い」「授業がつらい」と言われていました。私たちはもう高校生。人の思いが分かっているようで何も分かっていませんでした。先生、何言っているの?ときょとんとしていました。

3.たった一人のための補修プリント

 A先生の授業は決して面白くありません。生徒が好きな脱線話もほとんどナシ。どちらかというとイライラした雰囲気で、几帳面な文字を黒板に記し、説明を加える。
 他の先生と違っていたのは、授業の最後、全員に、補習プリントを配っていた。その補習プリントはやってもやらなくてもいいんです。宿題とは違うので、みなほとんどやらなかったのですが、私はやりました。なぜやったのか。そのプリントが教材のコピーではなく、手書きだったことと、提出すると先生が赤ペンで添削してくれたからです。
 最初の頃、補習プリントをやるのは結構時間がかかりました。でも私は重大な謎でも解くように、そのプリントを何日も持ち歩き、自分なりの考え方と答えを書きました。それは初めての経験でした。
 ある時、先生から「普通あなたみたいな解き方はしないなぁ」「強引な解き方ですが、間違ってませんよ」と言われ、私は嬉しくなりました。
 いつしか補習プリントを出す人は気付くとクラスで私一人だけに。週に1枚ぐらいあったので、3年間で150枚ぐらいでしょうか。先生は私のためだけにプリントを作り続けていたんですね。私は明確にひいきされていたのです。なんと光栄な!至福のひとときでした。

4.ひいき先生、ぶちかます!

 数学が好きになったおかげで、大学に進んでみたい、と漠然とした気持ちを抱くようになりました。そして、高校2年生の冬を境に、私は本腰を入れて受験勉強を始めました。そして、高校3年生の夏、「受験科目が少ないので、私立の大学に進もうと思っています」とA先生にもらすと、「もったいない!国語や社会など”1日”で勉強できるから、国立を受けなさい」と、今思うとかなり乱暴なアドバイスをぶちかまされました。私は自分で自分の「限界」を決めていた。その日から勉強のスケジュールを立て直しました。
 結果、受けた大学は全て合格。親も含め周りはびっくり仰天、「開校以来だ」とお祭り騒ぎ。
 でもA先生に「合格できました」と報告できたことが一番の喜びでした。”3年間のひいき、ありがとうございました。”

5.辛くても今日を生きる

 今でも、私はうつ病で辛いとき、焦りがひどいとき、不安が大きいとき、気力がわかないとき、それでも何かをしなくてはいけないとき、A先生は精神的にきつかったのに仕事していたんだな、と思い出します。
 そんなA先生のひいきのおかげで、私は自分の可能性を引き出してもらいました。また、「勉強は頭がいいからできるんじゃない」「勉強は忍耐する力で決まる」ことを学びました。これは難しい仕事にも、子育てにも通じますね。私の人生の土台になっています。

6. Snow Man。再び、「ひいき」のチカラ

 話しは転じてジャニーズ事務所の9人アイドルグループSnow Manに。
 宮舘亮太さんは11歳でジャニーズのオーディションを受けた後、なんとジャニーさんと二人でラーメンを食べにいって、「“YOUは歌もダンスもなんでもできるよね”って言われて。その言葉が、今の宮舘涼太を生んだんだと思います」と伝えてくれました。(※以下も含め引用はすべてMyojo10000文字インタビューから)
 向井康二さんは、ジャニーさんの病室でデビューを告げられ、そのときのことを、こう語ってくれました。「デビューを伝えられて泣いたの、俺だけやねん。気づかれないようこっそり泣いてたつもりが、メンバーにはバレてて。でも、俺が泣いた理由は“デビューだ。やった!”ってことじゃない。ジャニーさんが決めてくれたデビューだったこと、ジャニーさんに感謝を伝えられるうちにデビューできたことがうれしかったからで」。自分を見いだし、育ててくれた人への感謝の言葉です。
 深澤辰哉さんは、「滝沢くん、ホント弟みたいに接してくれて。ただ、今まで北山(宏光)くん、河合くん、いろんなJr.やグループの面倒を見てきたけど、“おまえがいちばん手がかかる”とは言われました。まちがいなく怒られた回数は、俺がいちばんだと思う」と滝沢秀明さんとの思い出を語ってくれました。”いちばん手がかかる”と。
 ラウールさんは、初めてMyojoに載ったときのことを振り返り、「まだ何者でもなかったときに大切にしてもらったことを忘れちゃいけないなって。これから出会う多くの人たちももちろん大切です。それと同じかそれ以上に、まだ何者でもなかった僕たちを応援してくれた人への感謝を忘れちゃダメだなって」と最初の時期のファンへの思いをまず話しました。
 岩本照さんは、デビューを告げられた直後、SixTONESの京本大我さんに握手したことをインタビュアーから確認され、「あのとき、握手をしたのは大我とだけ。同期ってこともあるし、本当にいろんな仲間が辞めていったからね。俺たちが進んできた道はまちがってなかったよねって気持ちを込めた握手だった。言葉は交わさないけど、お互いを称え合いたかった」と無二の関係を明かしてくれました。間違っていない。
 阿部亮平さんは、武器になると信じていたものの大学院に行くかどうか葛藤していたさなか、「ふっかやメンバーに言われたんです。“人に迷惑をかけるのはほめられたことじゃない。でも、メンバーだけは別だろ。いくらでも迷惑かけろよ!”って」と背中を押してくれたメンバーの言葉を忘れていません。そんなことがあったからクイズ番組に臨むのも必死で「Snow Manという文字列をいかに多く、長く(画面に)表示できるかの戦いだと思ってました」と言うんだね。
 目黒蓮さんは、中学生の頃、ジャニーズのオーディションに参加し、圧倒されていた時、お父さんのメールで冷静になれたことを思い出し、「お父さんは、家庭があまり裕福じゃなかったみたいで、野球をやってたときのユニホームや用具は、お下がりが多かったらしくて。そういうのもあって、息子には好きなことを思う存分やってほしい。親として万全なサポートをしてあげたいって思ってたんだと思います。僕ら兄弟によく言ってました。“おまえたちの可能性をつぶしたくない”って」。今、可能性の花が開いています。
 渡辺翔太さんは、「『滝沢歌舞伎ZERO』のリハーサルで、僕はジャニーさんと最後の会話を交わしてるんです。リハーサル中、僕が歌うシーンの音源が流れた瞬間、ジャニーさんが周囲の人を呼んで会議みたいなことが始まって。なんか重い雰囲気で、これは鬼のダメ出しで“この曲、誰が歌ってるんだ。最悪だよ”みたいな話し合いかもと思ってバクバクしてたら、ジャニーさんが僕のとこまで来て“あの曲、YOUが歌ってるの?”って聞くんで、“はい”って答えたら、“最高だよ! YOU、こんないい声してたんだね”ってほめてくれた。ジャニーさんの後ろに立っていた滝沢くんも“よかったね”って笑ってくれて。ジャニーさんに歌をほめてもらったのはオーディション以来。滝沢くんにほめられたことなんて、このときが初めてだった。ふたりの前で泣くわけにいかないから、チョー我慢して、その後ひとりになって泣きましたね」と。秘話ですね。
 佐久間大介さんは、デビューツアーのオーラスのMCでファンに向けて「僕たちを見つけてくれて、愛してくれて、生きててくれてありがとう!」と叫びました。そうだ。生きよう、生き延びよう、どんなことがあっても。

7. 最期に

 社会や機会が平等であることはとても重要。でも、ボクらを引き上げ、支えてくれるのは、特別に自分を選んでくれた誰か。そのバランスが大事。
 MyojoのSnow Manメンバーたちの10000文字インタビューを読み返し、そこにはざっと思い出せるだけでも、メンバー同士、家族、ジャニーさん、滝沢秀明さん、ジャニーズの仲間、友人からの無条件の「ひいき」のチカラが光っていました。苦境の時ほど、その存在は光っています。

8. そして見えない支えも

 先日、ひょんなことから、職場の後輩が目黒蓮さんと同じ学校の同級生だということが分かりました。彼にいろいろ聞くと、「(サッカーの)ドリブルがすごく上手」「みんなのまとめ役だった」と。当時の同級生みんなが目黒に会いたいけど、「今は我慢」「卒業アルバムは封印」と言っている。「親同志は本当に仲良し」とも。こんな応援の仕方もステキですよね。リアルsilentの世界がここにはありました。
 この「ひいき」の世界、バトンを手渡すように誰かにつなげていけたらいいな。



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