不条理な音響空間

    自分の発する声は自らが思っているようには響いていないと知ったのはいつだったろうと思い出しています。普段の日常の中で多くの人は他人と接する機会があるものですが、当然そういった際には何かしらの対話があることでしょう。対話の方法には様々なものがあり、音声や文字、視覚に訴えかける表現など沢山に考えられますが、聴力が弱かったり、発声に極度の問題がなければ、一般的には自分の思いを声として響かせることでの対話を通して人は交流が試みられるのではないでしょうか。つまり音声による対話は日常生活に必要とされる表現において、その大部分を占めるものであると考えられます。


    そうであるので常日頃から私は私なりに相手にとって不快な音にならないような発声に努めているのですが、例えば挨拶したり、感謝の意を伝えたりする際に思いを伝えようと発声した直後に自分の声に違和を感じることがあります。今の私の声は低く、抑揚もない暗い感じに響いてしまわなかっただろうか───もし相手に威圧感を与えてしまったら、それは私の望みではありません。また逆に明るく丁寧に相手が聞き取りやすいように発声したところ、今度は妙に演技がかったように感じられて、自分自身で気味悪く思ってしまう経験が何度もあります。


    これらのことは日常の中で多かれ少なかれ起きていて、私はその度に自分自身への違和を感じつつ、日々をやり過ごしているような状態にあります。まるで自分の声ではない、私の声はどこから発せられているのか───それは私自身からに違いありませんが、それでも、そのような思いを抱かずにはいられないでいるのです。


    そして改めて私にとって自らの声の不自由を切実に知ったのはいつだったろうと思い出そうとすると、私の場合はある痛々しい経験の記憶に突き当たります。


    それは私が中学生の頃の記憶に遡ります。中学の三年生の頃にとある演説大会がありました。かなり規模の大きなもので、後で調べると全国大会まで催されたらしいです。どれだけの予選があったのか正確な情報は分かりませんが、全国大会の前には地方大会があり、都道府県の代表選、またその前には各学校の学年代表選があり、更に学年代表となる数人を選出するにあたって、学級代表が選ばれなくてはなりませんでした。


    私はその演説大会には始めから積極的な参加意志を持っていませんでした。それは私だけではなく、学級の雰囲気を察するに同じ学級の誰も代表になりたいと思う人は一人もいなかったようでした。ですが誰かがその役目を引き受けなくてはならないということで、なし崩し的に私がその役を演じることになったのです。私の痛々しい記憶はこれからなのですが、思えば、この時に既に私は心からの声を発することも聞くこともできずに周囲に流されるままになってしまっていたのだと思います。


    私は広い体育館で同学年の生徒たちの前に立つことになりました。私の学年は学級が五つあり、他の代表の人たちは皆が何週間と代表としての自覚を有して演説の練習をしてきた人でした。その中で私のみが本番当日の三十分前に決定した代表でした。学年代表選の直前にこの事実を知らされた時、つい私は誰かの罠に嵌められたのではないかと率直に思いました。しかし、もう逃れることは叶わずに私は全く自分の演説内容にも自信が持てないまま、壇上から演説することになったのでした。


    結果は最低でした。学年代表の選出は聴衆である、学級代表に選ばれなかった同学年の生徒たちの採点によって決まるのでしたが、学年代表選が終わった後に気心の知れた友人が私の方に近づいてきて、「何だ、あの演説は。全く聞こえなかった」と言いました。やはり自信のなさや演説に対する消極性が声量に表れてしまっていたようでした。それから友人は「全部(の指標)で最低点をつけておいた」と私に冗談めかして笑いました。友人だけではなく、聴衆は多かれ少なかれ私には低い点数をつけているようでした。私は演説している最中から自分の出来があまり良くないことを認識していましたが、いざそれが事実となって私に迫ってくると、やはり胸が締め付けられる感じがしました。私は言い様のない、周囲の人間にも自分自身にも訴えかけたい感情が胸の内で沸々としているのに気づきました。しかし、私にはその思い───声を表現する舞台はありませんでした。そうして私は居たたまれない気持ちの状態で大粒の涙をこぼしながら、一人その日の家路を辿ったのでした。

    大声を出しても、誰にも届かないような遠い声のように響くこともある───小さな囁きが反響しながら、倍音化して、人の耳に届くこともある───そして自分の発しようとした声が客観的には、そのようには響かないこともあることを私は自らの痛みを通して知りました。今も当時の友人の声は私の胸の内に響き続け、自分の発しようとした本当の声───あるはずの声はくぐもっているようです。自分の声が思ったように響かないことほど苦々しいことはありません。あの演説大会に際して、私は自分の声をしっかりと聞き、それが私がしっかりと責任を全うできる性質のものなのかを考えなければなりませんでした。そして自らが発する声───発しようとする声に慎重にならなければなりませんでした。様々な声が私の内にも外にも響いているのを感じます。それらの音は混じり合って、また別の声をつくりあげているようです。この痛々しい経験から私は自分自身もまた相手の声や自分の声を響かせる不条理な音響空間の一つなのだと学んだように思います。