意外な構図

 とある日の鉛色の空の下、私は駅の構内に設置された椅子に腰かけていました。半ば眠りにつこうという具合に肩の力を抜いて、次々と入れ替わり、流れていく人の群れをただ視界に捉えていた状態にありました。私はその日に用事があり、駅を跨がなければならなかったのですが、こういった日には私はいつも予定の時刻よりもかなりの余裕を以て移動をします。予報によれば、交通機関が乱れる恐れも見られず、私自身の移動速度を鑑みれば、もう少し出発を遅らせても良いところを私はいつも早く目的地に向かうようにしてしまうのです。相手がいる際にはたとえ何か不慮の事態だったとしても、遅れてしまうことは相手に謝るべきことですが、私自身が予定よりも早くに近隣に到着することは私以外の誰も困らないだろうと思います。もっとも予定よりも早く目的地に到着することは相手の迷惑になってしまうので、早く着いてしまった時には、自分が落ち着くにちょうど良い場所を見つけて、この日のように佇んでいるのです。


 そういった私には忙しなく映る人々を見て、ある途方もない空想が私の頭の中に浮かんできました。その空想は朧気な意識をさらに深めるには余りあり、現実を見据えているようでも、夢の世界に落ち込んでいくような感覚を私に与えてくれるものでした。


 簡潔に言えば、それはこの時に目の前を通り過ぎていく人々と私の関係とはどのようなものなのだろうか───これ以前にも、あるいはこれから先の未来において、無関心な表情をしながらも過ぎ去っていく人との間にはもしかしたら別の関係があるのかも知れないということでした。どうして、私がこのようなことを思い立ったのかは分かりません。分かりませんが、私は通り過ぎていく人々を見ながら、次第にこの空想に耽っていったのでした。


 考えてみれば、人間関係は様々な構図に満ちていると私は思います。単なる顔見知り、友人、親友、恋人、親族、その他諸々あります。そして、つい私はそのような構図が相手にも共有されているものだと思いがちですが、相手からすると、そうではないこともあるかも知れません。むしろそういった場合の方が多いと思います。つまり相手は私のことを快い存在と考えてはいないかも知れません。それは目に見える周囲の人だけではない、もっと枝葉のように分かれていく人間関係の広がりを示唆しているようであります。例えば時代や空間を共有していない歴史も例外ではないのではないでしょうか。歴史上の大悪人は時を越えて、私を救済しようとしてくれていたのかも知れませんし、破滅して欲しいと願う政敵はもしかしたら人助けの場面で一致するかも知れません。私は自分の周囲が平穏であって欲しいといつも願っている者ですが、目の前を通り過ぎていく人々も何らかの平和のための祈りを同じように捧げていることも大いに考えられることではないかと思い至ることができます。自分が身近に思っている関係が信頼できなくなった時には何故だか自分とは遠い人は裏切らないものだと思ってしまいます。全く見知らぬ人と意識しない内に心を通わせ合っていて、初めて対話した時には私たちは以前から親友だったのではないかと感じる時がくることがあると考えてしまいます。


 私はこのように考え始めて、意外な構図を空想することは日常生活の中で大それたことではないと思うようになりました。人との距離感や自分の立場の決めにくさは全く否定的に考える必要がないものだと考えるきっかけにもなりました。自分と近くの人、遠い人、駅ですれ違っただけの人を思って、どれだけ人間関係の構図を考えることができるだろうと思うと私は夢を見ているようであり、現実の不確かさに接するようでもあります。それは無限に広がっていく可能性があると感じられます。


 もっとも相手から見た私をさらに見てみたり、誰かに対する自分の率直な感情であったり、そういった関係を突き詰めることのない、さっぱりとした関係の方が悩むより良いということもあると思います。会う度に自分と相手の関係の構図に疑念を抱きながら、恐る恐る会話をするような関係では楽しいとは言えません。しかし仲良く笑い合う関係であっても、たった一言を相手は根に持つこともあるということは私にはそれを上回る恐ろしさです。


 私自身が複雑であればあるほど、考えられる人間関係もそのようになっていくでしょう。自分が意外な構図だと思う人間関係の中に今、確かだとされている関係の秘密が隠されていると感じます。私が誰かに期待していること───思いを寄せていること───それが何かが問われています。このように考える私もやがて、この人々の群れに混じっていくことになります。私も様々な人の間を通り過ぎていく一人になります。私は何を思って、他人と接するのだろうか、この随想はそれに至るまでのほんの一時のことでした。