黙過

 日頃から様々な情報に接していると、 毎日どこかで何か大きな過ちが起きていることを知ることができます。 私が楽しく笑っている間にも、就寝している間にも、そして、こうしてこの文章を書いている間にも、 何かしらの過ちが起きています。それらの出来事に対して真面目に向き合おうとするならば、そのあまりの数の多さから心身の不調を負いかねず、そのため私はそのような報に接しても、あまり深く考えることはできません。

    そして加えて、一つ一つの出来事について報道からは断片的な情報しか知り得ず、 私はただ単にその情報を受け入れる立場でしかありません。 それらの出来事について私の方から正しい情報を発信することはできません。 自らが実地に赴いて取材を試みるわけでもなく私の方から新たに情報や感想などを加えるとしたらそれは私の想像の域を出ません。

    しかしながら私は無責任にも想像を巡らせることがあります。 私はそれらの過ちが起きた際に、どうして誰も注意できなかったのだろう───止められなかったのだろう───防ぐことができなかったのだろうとつい考えてしまうのです。 こういった考え方は場面によっては 、単なる想像によって過ちを犯した人の情状に積極的に共感しようとするものなので、 加害者も被害者の一人であるという論理───何らかの過ちは罪などは個々人の責任ではなく、社会や周囲の環境などによるものであるという思想に近いものがあり、考えている私自身、危険な偏光性があると思っています。このような考えを公に主張することは控えなければならないと思いながら、しかし私の素直な思いとしてあるのは事実です。

 私は大きな過ちを犯してしまった人が故意によるものでない場合、その人はまさか自分がこのようなことをするなどありえないと思うものなのではないかと考えることがあります。例えば、過ちを犯してしまった人は突然にそのようなことをしてしまったのか、それとも、その過ち以前にも同じような過ちがあり、被害者がいたが、その被害者が注意したり、怒ったりすることなく、過ちを起こした人もそれと気づかずに過ぎてしまったのか。あるいは全く過ちなど起こしたことがなく、自分が何か過ちを犯すかもしれない危惧を抱かずにいたのかという方向に私の想像は向かってしまいます。

 幼少の頃から、私は周囲からの注意はありがたいことだから聞き入れなさいとの教えを受けて来ました。その教えは私が直接に教えられたのではなく、創作物語の人物の中の一人が別の人物から言われている様を見て受けたものですが、周囲からの注意にしっかりと耳を傾ける教えとは、裏を返せば、周囲の少しの対応によって、過ちを起こさずに済むというものでもあるかと思います。これはまず注意を聞き入れない者への戒めの言葉ですが、同時に周囲の影響がいかに大きいかを示唆する教えでもあると思います。人と人との交流や対話によって、どれだけの過ちが起こらずに済むかを私は考えさせられています。

    私は過ちを犯した人を擁護するためにこのようなことを想像しているのではなく、私自身が大きな過ちを犯すはずがないと思っている程に自分自身をその過ちの人に重ね合わせざるを得ないからなのです。私の生活を省みるならば、多くのことに対して、無自覚に無関心に過ぎて行ってしまっていることに気づかされます。それはほんの些細なこと───身嗜み、食事作法、言葉遣い、これら以外にもきっと気づけないものがたくさんあると思います。私が過ちを犯すはずがないと思う程に些細で小さな安全にこそ、自己が思いもよらない大きな過ちが潜んでいるのかも知れないと思います。また大きな過ちに発展していく可能性もあり得ないとは言えません。沈黙の内に過ぎてしまうものの中に大切なものがあるのではないかと私は感じています。過ちを実際に起こした時に無知や無思慮では済まされないような見過ごすことのできない大きな過ちがあるのだと考えています。