老衰について

 年齢を重ねるにつれて、私は自分が弱くなっていくことを感じます。精神的にも体力的にも打たれ弱くなりました。若い頃であれば憂いに囚われても、それに正面から向き合っていたような気がしたけれど、現在では体裁を取り繕う術をいつからか自然と行うようになり、解決されていない事柄を誤魔化し続けた結果、むしろ逆に問題が悪化しているようです。子供の頃であれば風邪をひいても、一日安静にしていれば治っていたものですが、何日も長引くことは当たり前になってしまいました。もっとも、これらが年齢を重ねたことによってなのかについては私に明確な根拠があるわけではありません。ですが子供の頃のような活発な感じは今の自分に見出すことができなくなりました。そして、その状態に慣れつつある自己を感じています。


 私は老衰というものはある日突然やってくるものなのではないかと思うことがあります。そして、その自覚は長い日常の中で芽生えてくるものなのではないかと考えています。人は怪我や病にかかると健康状態の時にできていたことができなくなります。例えば脚の骨が折れてしまえば、人は歩けなくなります。脚の骨が折れること自体は年齢に関係なく起こり得ることですから、それ自体では自分自身が老い始めているなどと考える必要はないでしょう。ですが年を重ねた人は全体が既に弱っている状態のところにどこかひびが入ることによって、自分自身がいとも容易く壊れ、また若い頃のように完治することが見込めなくなり、その状態と付き合っていかなければならなくなることを思い知ります。私自身はまだまだ若い、まだやりたいこともあるし、たくさん動きたいと思っても、当の身体が急に動かなくなってしまった時、突然に自らの老衰を宣告されたように感じます。そして、その後の生活はこれから、では自分はどのように自らの老いを受け入れる日常を送るかという思考に変化していくことになります。


 私は若い人よりも元気だった老婦人を知っていますが、その人はある日のこと自転車を運転中に転倒して、半身不随になってしまいました。現在は回復を目指しているようですが、周囲の介護が必要な身となってしまいました。その人は突然にして同世代の方と同等かそれ以上の年齢を感じさせるほどにまでなってしまったのです。


 何か大きな怪我をして身体が動かなくなった時、人は自分が既に老衰にあると悟り、その後の生活を慣れさせていくのではないでしょうか。老いたことを自覚すると、何か危ない運動などをしようとは思わなくなっていきます。自分の体力はもう若い頃とは違うのだと言い聞かせながら、一つ一つ自分の生活をそのような方向に委ねるようにしていきます。

    年齢を重ねながら思うことと言えば、私にとっては自身の不都合さに他なりません。自身の不都合のためにいつのまにか無謀な冒険などを控えるようになり、自分の私的な空間においても慎みある姿勢を求めるようになりました。また体力的な問題だけではなく若い頃は甘く見られるようなことも、年を重ねた人がやれば見苦しいことが多々あり、それを意識せざるを得ません。

    現在の私は成長と老衰の違いとは何なのかとわからなくなってしまいました。幼い頃から青年期を経て、成熟したとしても、結局のところは老いて病み、衰弱していく方向にしか人は年を重ねることができません。もし、老いとは若さの挫折や衰退を受け入れることならば、いっそのこと若い内から老いていることの方が良いのかも知れません。自分自身にもはや夢を見ることもなく、冷めきった感情で若さの華を生きることになろうとも───それが老衰していく人間にとっての健康ということになるのかも知れません。