見出し画像

夏の匂いの話(6/14の日記)

深夜に読書して寝るのが遅くなって目覚ましを全部止めて寝坊するという悪循環。一日中眠い。気力を無くしたまま、外の空気を一切吸わずに一日過ごした。だから夏の匂いとか、今日の日記に限っては少しも関係ない。

この日読み終わった本は一つ前の日記に書いたイヤミスの短篇集。後半の話になるにつれてイヤさが増していった。イヤというかグロ?人体が傷つく描写が濃くて、思わず自分の手を押さえた。段々体に力が入らなくなっていく感じ。今思い出しながらこれを書いているだけで、握力がみるみる失われていく。

以前母親に「痛い映像や文章を見たときに力入らなくなるよね」という話をしたら、「逆に力が入ってぐっと手を握っちゃう」というふうに返ってきた。少なくとも2パターンあるらしい。
こういうのって人体の無意識の防御みたいなことなのだろうか。私は例えば映画の登場人物が転んで膝をすりむいたなら、私の膝がうずいてきて自分の膝を押さえてしまう。それで無事を確認するようにさする。痛みという感覚には特に自分と他人を重ねて考えてしまうところがあるようだ。
「痛いのが嫌い」というのは、単に「痛み」という感覚への嫌悪や拒否と、「痛い思いをしている人」へのその痛み理解できちゃう感があるのではないかと考える。想像するだけでしんどいやつ。
また具体的に思い浮かべてしまってキーボードを上手く打てなくなってきた。ひいぃ。

それからこの日、もう一冊読み始めたのがこれまた短編の小説で、でも今度はどんな話か前情報をほとんど入れないで読んでいるからイヤミスとは別のわくわく感がある。
今のところどれもいろんな形の愛情の話。小説自体は昭和の多分真ん中頃に出たもので、なんとなく文体に馴染むのに時間がかかりそうだからとしばらく読まずにおいていた本だ。確かに聞き慣れない言葉や、時代に沿った当たり前や日常が書かれていて、知らないなぁと思いながら読んだけど、文章自体はするする入って一緒にうっとりできる美しいものだった。なぜ読まずにやってきたのか。

「前情報をほとんど入れないで~」と書いたが、一つだけ読みたかった話が入っている。高校生の時、現代文の模擬試験で例題になっていた文章だ。試験中のめちゃくちゃ静かな教室の中で、この小説を読んだ私はもう夢中になり、テストが終わってもこの話を忘れたくない!とそればかりに必死だった。それが大体2年か3年くらい前のことだったと思う。
アルバイトをし始めて自由のきくお金がちょびっと増えて、本屋を物色するようになって、この小説の存在を思い出した。本屋さんで作者の名前を見かけたのがきっかけだと思う。

当時試験そっちのけで小説の続きを読む方法ばかり考えていたのに、私はもう2年か3年もこの小説まるごとを忘れていた。多分どこかにメモしただろう題名も忘れた。覚えていたのは作者の名前と、舞台がバザーの会場であること、語り手が男子学生であったことだけだった。
現代のインターネットは素晴らしいもので、これだけの情報を検索するとそれらしいヒットが出たので驚きだ。いくつかの書店で探したけど見つからなかったのでネットで注文した。題名は目にしてやっとピンときた。

短篇集なのでまだその話までたどり着いていない。そのうち読んだらまた日記に書こうと思う。すごくすごく楽しみだ。

夏の匂いについて一切書かない日記になってしまった。
窓を開けたらアスファルトが雨で濡れた匂いとか、道端の雑草の、盆に墓参りに行くときを思い起こさせる匂いとか、夏にだけ使う制汗剤の強い匂いとか、そういうのが夏の匂いだと思う。ノスタルジー。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?