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うちのじいちゃんのお話し

前回まで認知症について少し触れました。
前回のお話はこちら

私が自分の最期を考えるとき、
必ず目指す姿として思い起こすのが祖父です。
今回は介護や認知症の話から少し離れて
自分のことを書こうかなと思います。

1.うちのじいちゃん

私の母方の祖父は明治生まれ、戦争にも3回行き生還した人でした。
江戸っ子ながらべらんめえではなく、
厳しいけど新しいことにも柔軟に興味を持つタイプの人でした
孫の私から見ても相当頑固ではありましたが(笑)
祖父の子どもは母を入れて3人
祖母も厳しい人でしたが穏やかで優しい人でした。
小さいながらに祖父が祖母を大切にしていることは感じていました。

2.じいちゃんの姿勢

私が大学に進学したころだったと思います、
祖母は脳腫瘍がもとで介護が必要になりました。
祖父は、「戦争で留守をして苦労をかけた」という想いで
一人で介護を担っておりました。
入院した時には決まった時間に毎日必ず病院に見舞いに行き
決まった時間に帰ってくる。
病院でも有名だったそうです。
闘病と介護の末祖母は亡くなり、祖父は独りで生活を始めます。
祖母のお墓ができてからは、決まった日に決まったスタイルでお墓参りを
欠かさず、自分の生活もきっちり。
自分のご飯の量の管理、家の維持すべてしっかりとこなしていました。
恐らく、祖母に恥じないよう一緒に暮らした家も身体も維持すること、
自分を律することを全うしていたのだと思います。

3.祖父の最期

94歳、独居生活。
母や叔父叔母は祖父の強い意志を尊重し独居生活をできる範囲で支えていましたが、自宅で独り最期を迎えました。
年末の日、祖父は日課の神棚を整え、部屋をきれいにし、
新年を迎える準備を完了して、自宅で倒れていたそうです。
診断としては心筋梗塞でした。
誰にも頼らず、誰にも迷惑をかけず、かっこいい姿で旅立つ
もう医療職を始めていた私には、これ以上ない最期の迎え方だったと思いました。

4.母や叔父叔母の気持ち

母や叔父叔母はここまで支えてきた形が違っていたのかも
最期を一人で迎えさせてしまった
という想いの方が強く、後悔の言葉も聞かれました。
私は孫であり、医療職として祖父の最期は
本当にかっこよく見え、自分もそんな最期を目指したいと思うようになりました。

5.母の言葉

最近になって母と祖父の話になった時、
母から
「亡くなった時は後悔の方が強かったけれど、
今は病院に運ばれて無理な延命をされている祖父の姿を見るより、
自宅で最期を迎えられた方が良かったと思えている」
と聞かされました。
今は良い方向で受け入れられているのだなと安心した次第です。

6.最期の迎え方

基本的に自分の最期のタイミングは選べません。
その在り方は選べるようになってはきました。
どう在るべきかは人それぞれ。
私は今でも祖父のように逝きたいなと思っています

今回は自分の祖父についてのお話でしたが
「最期を迎える」
ここにフォーカスして次回はお話をできたらなと思います。

最後までお読みいただきありがとうございます。

皆様にも憧れる最後の在り方ってありますか?
皆様のお話もお伺い出来たらうれしいです

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