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今日の一福

2024/03/13


「じゃあ、あした!」
「おう」
「殺虫剤もってきてね」
「あ、おれゴキブリのやつしかないかも」
「それでオッケー」
「おう。またなー」

 かくして決戦の火ぶたは切って落とされた。
 初夏。
 場所は住んでいたアパート。その駐車場を囲ったフェンスの角に、あしなが蜂が、拳大ほどの巣をつくった。
 やあねえと母は言った。「このまえベランダのを取ってもらったばっかりなのに」と。
「通り道じゃないだろう」と父。
「でも子どもに何かあったらどうするのよ」と母はわたしの方をチラ見した。そうでなくとも、このときの母はご機嫌斜めで、ブラウスに飛んだケチャップが取れないとか、別件でもイライラしていた。
「こわいじゃない。あぶないわよ。何かあってからでは遅いのよ」

 ああそうか。
 そんなものかというわけで、子どものわたしが一役買うべく袖まくりした。そんな次第だ。
 父も母も毎日なにやら忙しいのは、子どもながらに心得ていた。ここは大人の手を煩わせるまい。わたしの安全はわたしが守ろう。そう一大決心の上での決行だった。
 それでも立ち向かうには勇気が要った。やつらは軍勢。小1女子がひとりで仕掛けるには知恵が要った。
 ここは援軍がほしかった。心強い武者をさがした。おなじアパートの男子をさそった。それで冒頭のやり取りだ。
 彼は快諾してくれた。気のいいやつで、何よりひとんちの冷蔵庫を自由に開けて梅酒をラッパできる剛の者。有事に際し、おあつらえ向きの人材だった。

 そうして迎えた決戦日。
 結果は完勝。気負っただけに呆気なかった。
 殺虫スプレーの威力はすさまじかった。ぼたぼた落ちた。
 それで興奮してキャアキャアわらった。
 足元の白いコンクリートが死骸で黒くなっていった頃には、討伐完了。一匹残らず根絶やしにした。カラになった蜂の巣は叩き落して、外の草むらに投げておいた。

 万歳。拍手喝采。おめでとう。
 悪は滅んだ。かくして世界の平和と安全は守られたのだ。あの桃太郎も鬼討伐してお宝ゲットだ。これぞヒーロー。気分最高。絶好調だ。
 そんなだったったか、なんだったのか、蜂の死骸を丁寧にかき集めて持って帰った。
 当時なにかの教育雑誌を読んでいて、その付録に顕微鏡か拡大鏡のような箱があった。そのなかに入れておいた。たまに思い出したように取り出してはガサガサ振った。
 あとからさすがに気味が悪くなった。
 それで引っ越す時に箱ごと捨てた。

 そんなことを何の気なし思い出した、今日の夕。捨てたつもりでいたのだが。
 テレビ画面にはニュース映像。アナウンサーの流暢な声。
 どこかで誰かが死んだだの表彰されただの。言い合っただの殺し合っただの。勝っただの負けただの。
 わたしがヒーロー、いやいやわたしが。
 ガサガサ鳴りっぱなしで、耳の奥が落ち着かない。

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