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エンジェル・パス

ファースト・ペンギン


 “ファースト・ペンギン”とは、誰もが躊躇して踏み込めない領域に、先んじて飛び込んで行く勇敢なものを指すスラング、らしい。ラグビー部の顧問だということが「いかにも」な、体長180cm後半のでかい図体にオールバックという高校教師らしからぬ格好をした先生がそう教えてくれた。見た目の怖さと裏腹に可愛い趣味をしているのなら女子生徒の人気が出てもおかしくないのだが、休日はスターバックスのコーヒーを片手に英語教育の研究をしている上に口周りの髭に厳しい生徒指導をするものだから「生徒に好かれる先生」とはかけ離れている。第一印象はそんな感じだった。

 文武両道を謳っているくせに偏差値は50を跨いだ程度、スポーツに関しては県大会に出る部活があれば万歳するような高校に入った僕は、入学して半年も経たないうちに退屈さを感じるようになっていた。自分の優秀自慢をする気もないが、近くて大学に入れる可能性がある、という理由だけでこの高校にしたのは間違いだったのかも、と思ってみたりもした。だからこそこの先生がこの高校の同窓生であり、この高校で教鞭を執ることに誇りを持っている彼のことは理解し難い存在であり、狭い世界を見ている人なんだろう。15歳の少年なりになんとなくそんなふうに見下していた。

 先生の英語の授業は先進的で、いつだって50分という限られた時間の中で最高の授業をしようとする意思が感じられた。スピーディーに進むスピーキング練習、文法の細かなニュアンスを日常会話のフレーズと一緒に教えてくれた。周りのみんなには「面倒臭い」と不評だったけれど、僕はこの授業が好きだった。他の先生の、50分間スライドに教科書の文章が映し出されているのを眺める時間が何よりも嫌いだったから。昼休みに職員室まで質問をしに行った時には、いかに英語の文法が美しいかを延々と話されて昼食を取り損ねたこともあった。テスト直しをしに行った時には、テスト内容と関係のない発音の特訓をさせられた。

 1年生が終わる頃には、生徒たちも怪盗グルーみたいな体型の彼の圧に慣れてきていて、授業中にイジられたりイジったりすることも多くなっていた。文理選択が迫ってきていたこの時期に、僕は迷わずに文系を選んだ。テスト勉強とは関係ない英語に触れてみて、僕は英語が好きになっていた。

ある日のこと

 卒業直後に進捗報告で電話をしてはや2年。横浜での一人暮らしにも慣れて、ゆとりを持って大学生活を楽しんでいた。その日も、大学から帰ってきて1人の時間を堪能していた時だった。久々に先生から電話がかかってくる。「ご無沙汰してます。どうしたんですか?」いつも通りに久しぶりの挨拶。「おう。元気してたか。」いつも通りの圧力が、耳元から全身に緊張感を持たせる。少しばかり他愛のない話をして、先生が続ける。「俺な、動けなくなってしまったよ。」




 高校生として最後の一年が始まり、僕の所属しているバスケ部に先生が新顧問として入ってきた。元々この高校のバスケ部として県大会でも上位を争っていたというのだから驚きを隠せなかった。残念ながら僕らの学年の担当教員から彼の名前は無くなっていて、少し残念な気持ちになった。英語の授業はこれまでよりもつまらなくなったけれど、それでも英語を勉強するのは楽しくて、文法のニュアンスだったり単語の語源なんかを聞きに、僕は職員室に通う回数が増えた。

 3年生になったというのに志望校はまだ決まっていなかった。僕にとって大学は、行っても行かなくてもいいし、行くにしても頑張って上を目指したいと思えるような場所ではなかった。部活を引退して少し経って、少し将来のことを考えたけれど、やっぱりわからなくて、いろんな大学のことを調べてもあまり魅力は感じていなかった。あの頃は目の前の答案用紙を埋めることよりも「なぜ生きていかなければいけないのか」という問いの答えをずっと探していた。

 夏休みに入ってしばらくした頃、同級生が教えてくれた大学にオープンキャンパスに行った。せっかく横浜に行くというのに、大学の敷地でパンフレットだけ受け取って、すぐに住み慣れた街に帰ってきた。暑いのは嫌いだったし、人が多いのも苦手だった。夏休みが明けてからの進路希望調査には、とりあえず「明治学院大学文学部英文学科」と書くようにした。

 そんなとき先生から呼び出しがあった。身に覚えのない呼び出しに不安を感じながら職員室に顔を出すと、志望している大学のAO入試の願書の期限が近づいていることを教えてくれた。「そうか、お前は明学を受験するのか。」と誇らしそうな顔で言っていた。知っているのかと尋ねると、先生はドヤ顔でこう言った。「俺も明学の卒業生だ。それも英文科のな。」

 その後しばらくは、先生とマンツーマンでAO入試の対策をした。英検1級の英作文を練習したり、英語面接のために英語で自分のことを話す瞬発力を養っていった。そして練習が終わると毎日毎日、まだ入学してもない後輩に向かって大学時代の思い出話を聞かせるのだ。練習時間のほとんどの時間を、その思い出話が溶かしていった。母校に対して誇りと敬意を持っている人だと思った。皆が完全に冬服になる頃には受験が終わり、僕は相変わらず先生に英語について質問しにいった。

 先生と生徒指導室で話していたある日のことだ。話している間、先生はいつになく疲労を感じる様子だった。先生は、先ほどの職員会議で、英語の教育方針についてプレゼンをしたこと、それが他の教員に「手間がかかる」と反対されたこと、校長に訴えても同じだったことを話してくれた。先生にとって、英語の教員は憧れそのものらしかった。生徒のために尽力し、最高の教育を日々届けることを目標としていたし、そのための努力は惜しまない人だった。一部の生徒だけだったけれど、それはしっかりと伝わっていたし、僕もそんな英語教師になりたいと思っていた。その日を境に、先生は時折疲労を隠しきれない時があった。目の下のクマに、先生からはタバコとコーヒーの匂いがした。それでも高校を旅立つ日には、いつか白金キャンパスの近くのビストロを奢ってくれると約束をした。梅が咲いていて、校庭が色づいていた。僕は明治学院大学に入ったことを不思議と誇りに感じていた。


エンジェル・パス

 大学生もまもなく終わる。この4年間で僕は成長したのだろうか。何を失ったのだろうか。そんなことをぼんやりと思いながら、無事に卒業できることを先生に報告しようと考えていた。先生の体調が優れていないのは分かっていた。けれど、電話をすれば以前のように「おう、元気か。」と圧を感じる声で英語教育について語り合うのだろう。インターンシップが忙しくなり連絡は先延ばしにしていた。そんな暖冬の夜に、先生から着信があった。先生は、鬱病だった。教職員たちとの人間関係のストレスで体が動かなくなり療養しているのだと教えてくれた。2時間にわたる電話の中で、先生は正しさについて自問自答を繰り返していた。昔のような強さを失い、正しいと信じていることを追求し続ける力も失ってしまった。先生は言っていた。他人も説得すれば動いてくれると思っていた、と。教員はベストな教育を提供すべきだという理想を、1人で追い求めていた。それ故に傷つき、倒れてしまった。

 「社会人としては、あるいは間違っていたのかもしれないな」先生がそう放った。社会に身を置くものとしては、周りとの調和を保ちながら仕事するのは大切なのかもしれない。正しいかもしれない。けれど、先生にだけは言ってほしくない言葉だった。自分のスキルを高め続けようとする先生を尊敬していたし、「レベルの低いところに合わせ始めると集団全体のレベルが落ちていく」というのはいまだに僕が大切にしている指針だ。実力主義な僕の基盤は高校時代に身についたものだ。上を目指している人の足を引っ張る環境が嫌いだ。好きにさせてあげればいいのに、足を引っ張ることに労力を使う堕落した集団が嫌いだ。先生の誇りと自信を殺したあの社会が嫌いだ。

 自分から環境を変えればいいのに、と高校時代に言ってみたことがある。彼は今担当している生徒たちを見送るまではできないと断言していた。先生は信じていた。より良い教育を作ろうと職員室が団結することを。彼は純粋に、夢を見ていた。教員として、少しでも生徒の人生にプラスの影響を与えられるるような教員になれると。僕もそんな教員になりたいと思っていた。

 それが最後の電話だった。先生は、未来の話をしなかった。先生の人生で学んだ多くのことを伝えてくれた。仲間を作ること、順調に仕事をしている時こそ邪魔をしてくる人がいるということ、近しい人の死についての向き合い方を、教えてくれた。高校、大学の直属の先輩だった。理想のために努力し続けられる人だった。電話の後半は、情けない、申し訳ないと繰り返していた。僕は何もできなかった。先生は最後まで先生で、僕に助けを求めることはしなかった。電話口から、鼻をすする音が聞こえる。「幸せになれよ。」そう遺して通話は切れた。

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