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アンチダイバーシティ

※この物語はフィクションです。僕が書くこの文章に差別や侮辱の意味合いはありません。もしそれをこの文章から感じるとしたならば、それはあなたの内在的な差別心を投影しているに過ぎないのでしょう。

 昨今、「マジョリティ」だとか「マイノリティ」って言葉も聞かなくなってきた。かつての社会には「在るべき形」があったのだろう。それに当てはまらない、いや当てはまれない人たちをそう呼んでいたそうだ。マイノリティたちは、マジョリティだったら行使できたであろう自己の権利を最大限まで追求した。そして24時間テレビなどをはじめとしたメディア作品がそのマイノリティにドラマを付けて、民衆はそれを後押しした。

「本当は気持ち悪いと思っているんでしょ。」

 自己の権利を大きくしたマイノリティがいる一方、別種のマイノリティがそれを羨んで同じように主張していくようになった。そうしてマジョリティたちはマイノリティの「お気持ちご理解表明証」として彼らの存在を理解し、受け入れ、共存する道を進むのであった。

「普通と違うのが悪い」

 そうしていつしかマイノリティの存在が世界の過半数を占めて、マジョリティたちはそれを半ば強制的に受け入れるようになる。ダイバーシティ、日本語訳では多様性。「普通」か「普通じゃない」の世界から、「普通がない」世界を目指す人類の旅である。

「社会からズレているのが悪い」

 そんな流れをのほほんと生きてきたある青年が、一言放った。「守ってもらわないと、権利を頂戴しないと、いきていけないんだね。」

アンチダイバーシティ

 皆本質を間違えている。多様性を認めるということは、「気にしない」ということだ。誰がどんな人であっても、どうでもいい。自分は自分と気が合う人といるからさ。これこそが、多様性だよ。多様性を受け入れようと努力しているその姿は、「今の感覚では受け入れられない」という前提が必ずついて来る。それは感覚的なことだから仕方がない。海外でも多様性を受け入れようとするセミナーとかデモが度々起きているけれども、多様性は努力しなきゃ受け入れられないものなのかい?

 多くの人たちが差別されて、運動してを繰り返してるのを眺めていつも思うことがある。

「なぜ自分を受け入れられないのがそんなに嫌なのだろう。」

 この世界から受け入れられたい、それは傲慢な考えだと思う。君のことを受け入れてくれない人は友達になってくれないし、恋人にもなってくれない、仕事で雇ってもくれないだろう。ああ、可哀想。でも待てよ、これってさ、僕と同じ条件だよ。多分みんなも。

 どんな長所や短所があったとて、所詮1人の人間だ。その個人を好きになる人も、嫌いになる人もいるのはとても自然なことだ。個人が社会を嫌いになることはあれど、社会が個人を嫌いになることはない。

 直接的だけれど、「人は受け入れられるコミュニティでしか存在できない。」それはみな平等だ。ではなぜマイノリティたちは社会に訴えかけるのだろう。それは「人に認めてほしい」という傲慢さがないとも言い切れない。

 マイノリティはメディアのせいにするだろう。ゲイが気持ち悪くなったり、障害者が可哀想な人扱いされたり、黒人が白人に殺されたり。こういったマイノリティが淘汰される報道と、その報道に使われてる言葉やキャスターの話し方が気に食わないこともあるだろう。マイノリティと犯罪や社会の問題を結びつけられているようで嫌な気持ちになるだろう。

 その局のキャスター、編重、リポーターたちは黒人だったり障害者だったり異性を愛せない人は嫌いだったりするんだろう。でもそれは社会の意思とは関係のないことだ。障害の害は社会の害という意味じゃない。人間が健康に生まれてきたときの機能が害されているという意味だ。しょうがいしゃ本人は嫌な気持ちになるのだろうが、
言葉だけ変えてもなんの意味もない。

 マイノリティの人たちはたくさん行動してきた。その努力も実ってホモはゲイになり、レズはレズビアンと正され、障害者は障がい者になり、外人は外国人になった。

 それで何が変わった?行動してようやく変わったのが名前だけなのはどういう気分なんだい?名前を変えたら受け入れてもらえるようになると本気で思っているのかい?それが通用するならば岸田文雄は「税金集男」に名前を変えたら受け入れられるのかい?

 (もちろん全ての行動を否定するわけじゃない。レインボーパレードは社会に訴えかける反面自分を受け入れてくれるコミュニティづくりを担っているのは知っているし、他の活動もその面を孕んでいる。)

 むしろ、名前をつけたから、色眼鏡で見られるようになった。「ゲイとは」「障害とは」「ビーガンとは」名前がつくということは、イメージがつくということだ。これまではあなたの属性の1つだったそれが、社会の何百人かの集合のイメージに変わってしまった。

 あなたという存在は、もうあなたとして見られることはない。ゲイのイメージ、障害者のイメージ、ビーガンのイメージ。全部あなたのイメージではない。あなたはあなたなので、決してビーガン代表として主張しなくてもいいのだが、それを公表した時には「あなた」は「ビーガンの佐々木さん」になってしまう。

 名前があると分類するのに便利だ。だが、社会に名前をつけられた以上、それは個人を超えたイメージとなる。自分の属性に誇りを持つことと社会からどう思われているかは関係ない。社会から冷たい目で見られようが誇りをもって行動している人たちなどたくさんいる。自分の属性に誇りを持てないからって社会に受容してもらおうと行動した結果、個人が存在しない概念とそのイメージに変わってしまった。

 さらにいえば、「多様性」という言葉自体が人々に表面的な理解をさせている一因である。ほんとうは個人個人を細分化して見るべきなのに、その言葉のせいで何も考えずに全てを知った気になる。受け入れるべきだという社会の流れのまま、知ったかぶりしてるだけに過ぎない。

 真の多様性とは
・他人に対してどうでもいいと思える事
・個人を個人として評価する事

 この二つの要素が必要になるが、今後も行動し、報道されていく度にイメージが新しくなっていくだけで個人を見てもらえなくなってしまう。

 自分は自分だと、割り切るしかない。
あなたを構成する要素はごまんとあるのだから。
 そして他人にどう思われているかを気にする必要はない。

 あなたがあなたらしくしたところで、愛してくれる人は愛してくれるし、受け入れてくれないの人もいる。
あなたを構成する幾万の要素のどれを好いてくれて、どれが受け入れ難いのか、誰も判別することはできない。

皆おなじだ。特別視する必要はない。
皆不安だ。どこに行っても受け入れて欲しいと思う。
皆わがままだ。人に「こうするべき」を押し付けてしまう。
皆怖がりだ。自分が傷つかないよう誰かのせいにする。
皆同じ、皆、同じ。


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