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蛙の子は蛙



「ただいまー」

玄関から黄色いチューリップが見える。学校指定の黄色いチューリップと、それに負けないほど輝いている猫目の笑顔。

「おかえり」

「おやつ食べる!」

手洗いうがいしてからだよ、という声が背中に届いたのかすらわからぬまま、まだ真新しさを備えたランドセルが宙に舞う。電気もつかない洗面所で水が蛇口から流れる音、ジャーという音からシャーという音に切り替わって音が止む。グチュグチュが何回か聞こえた後に、間奏もなくガラガラ、そして口から吐き出す音。面倒くさがりな姫花のライフハック。
その隙に紅茶とイチゴのショートケーキ。さっき町内会のママ友とランチをした時に「姫花ちゃんと祐介くん、ほんとにいい子で、うちの琉聖もお世話になってるから」ともらったものだ。そのママ友はいわゆる若ママで、おしゃれなカフェや喫茶店によく行っている。上京したもの同士町内会で話が弾み、よくランチをする間柄になった。姉ほど年齢差がある私に、とても良くしてくれる、とても素敵な人だ。

ー姉ー

「美羽、早くして」

「さっちゃん、待ってよ」

内気な私を外に連れ出してくれたのは姉だった。ピアノも小説も映画も、姉の真似事で始めたことばかりだ。姉は私よりも冷めやすかったため、私だけ続けることになったのだが。私に初めて好きな男の子ができた時には私をデパートに連れて行き服を見繕ってくれた。フラれて泣いている時は無理やり部屋の明かりをつけてベッドに入ってきて「美羽はかわいいからすぐ素敵な人に出会うよ」といってくれた。就職のために上京してすぐに姉は結婚したのであまり会うことは無くなったが、それでもあったときには必ず2人で昔話に花を咲かせる。祐介の出産と育児で切羽詰まっていた私を救ってくれたのは紛れもなく姉だっただろう。こうやって生まれてからずっと守られている。

「美羽は、何でも手に入るからいいよね」

後にも先にもない、さっちゃんが私を嫌いになった日。
私はいつも通りさっちゃんがケーキのてっぺんのいちごをくれるんだと思ってた。今日の次の日が明日だというくらい当たり前だったそれが崩れるその瞬間は、当時遅めの初恋に盛り上がってた頃の私に、3日間もの間家にいるだけで涙が止まらなくなるほどのショックを与えることは今となれば不思議じゃなかった。結局姉も家の居心地の悪さが嫌になったのか、これまでと同じように残りの1つを私にくれた。

ーーー

「祐介、お風呂入っちゃいなさい」

最初は優しく声をかけていたが、あまりに新作のゲーム機に齧り付いている我が子に対する心配が私の声を荒げる。息子は母に似る、というのは真だと思う。切れ長の目、高い鼻、おっとりした話し方。すれ違う人が皆そっくりだというほど似てはいないが、息子ですと紹介すれば納得できる。姫花も祐介もなるべく平等に接しているように気をつけている私に「姫花はまだ子供だしおれはお兄ちゃんだから姫花にアイスあげていいよ」と父親譲りの気遣いができる子だ。

「今はいるよー、ひめちゃんは入るの?」

「そうね、ひめ、祐介とお風呂入っちゃいな」

「はーい」

お風呂場が静かな時の心配。こっちの気も知らないで「あ、お母さんだ」なんて言って呆れ顔。そんな日常の幸せ。こんな日常が毎日続けばいいのに。あの日みたいなことは、もう。

ーーーー

「ぴーちゃんがいない」

私が小学生だったある夏の日。夏休みに実施される朝のラジオ体操から帰った私は当時飼っていたインコのピーちゃんがいなくなっていことに気づいて泣きじゃくっていた。友達としていた市民プールの約束なんてそっちのけで、スーパーにいるであろう母を待っていた。一通り泣き終えた後、私は母を待ちきれなくなって、母のサンダルを引っ掛けて太陽の照りつける街へと踵を返した。あてもなく歩き慣れた道の景色に黄色い違和感を懸命に探した。私が普段通る道にピーちゃんがいないことも半分はわかっていたのかもしれない。それでも私は歩き慣れた道を、いつもより時間をかけて進んでいった。
ラジオ体操に向かう途中に母が持たせてくれた水筒は玄関に置いたままだった。玄関の鍵はかけただろうか。水分不足と夏の暑さで頭がはっきりと回らない。景色が斜め右下に落ちていくからうまく探せない。こんなに澄み切った空の下で、誰かが私の名前を呼んでいるような気もする。

気がつくと私は友達のマキちゃんの家で寝ていた。たまたまマキちゃんの家の向かいで倒れたから発見が早くてよかったとマキちゃんのお母さんが迎えに来た母に心配そうに話しているのを聞いた。母の汗だくの背中におぶられて帰った。湿って熱を帯びたその背中に不快感は感じなかった。

「ママ、ピーちゃんがいなくなっちゃった」

泣きながら話す私を「よっ」と背負い直した母は優しい声で言った。

「ピーちゃんね、美羽がラジオ体操に行った後すぐに死んじゃったんだ」

母の言葉を理解しようとしていると母は続けて

「最近食欲もなかったし、年齢も年齢だからね。帰ったらさようならしようか」

当たり前にあるものは、あまりにも簡単にいなくなってしまう。

ーーー

「明日おばあちゃんち行くよ。」

「やった!」

「おばあちゃん具合悪いから、静かにしててね」

父が夏バテで持病が悪化し入院すると報せが届いたのと同時に、母も暑さにやられて家事が手付かずだと姉が教えてくれたため、専業主婦の私と夏休み真っ只中の子供たちに白羽の矢が立った。上京する時に通った線路を反対向きで進んでいく。立ち並ぶビルの本数が減っていくごとに祐介と姫花の目線も下を向く。

「暑くなったらブラインド下げなよ」

「はーい」

空返事だけ残して緑が増えていく景色に目を奪われる2人に、昔の自分と姉を重ねた。

新幹線を降りて踏切を渡る。新鮮な田舎の景色に心を奪われる2人と、増えていくシャッターに儚さを感じる私の3つの影は、母の家に、私の家に、落ちた。

ーーーーー

「ただいまー」

旦那が買ってきた海外のお守りが特徴的な玄関に、麦わら帽子が見える。すらっと女性的な魅力を発揮したワンピースと、その陰に二つの小さなチューリップ。

「おかえり」

たまには体調を崩すのも悪くないな、と思った。

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