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自分との解釈違い【成長について】

もし、あなたが、これより後に並ぶ文を読んで何かを学ぼうと思っているのなら辞めた方が賢明だ。これから書くことはわざわざ執筆しなくても自分でも体感している事であるし、俺なんかよりよっぽど頭の良いであろうみなさまにとっては至極当然、明明白白だ。これは知識とするにはあまりにも価値の低いものであるが、知覚することこそその真価を発揮する。そいつの名は【成長】だ。簡単だよね。いわゆらなくてもわかるでしょ。

 成長とは。広辞苑をわざわざ読む事はないと思うが、過去の課題や困難を克服したり、またはそれに近づいていく過程を指す言葉である。つまりは過去からの変化をポジティブな視点で考えたときにこの言葉を使うのではないだろうか。ところで、過去からの変化は全て成長では?とも思うが、世間的には結果起こした行動の善悪で判断するそうな。「堕ちた」と揶揄されることもあるよね。ちなみに谷沢龍二は安西先生に「まるで成長していない...」と言われたが、これは過去からプラスにもマイナスにもなっていないという解釈なのだろうか。谷沢がアメリカに渡ってバスケをした時間が無駄になったと言う点においてはマイナスなのかも知れないが。スラムダンク知らない人はごめんなさい。関係ない話なので飛ばしてかまわぬ。大学の論文じゃないからついつい脱線してみたくなるのだ。許してね。

 さて本題。ここから読むだけで良さそう。

 僕のnoteに「蛙の子は蛙」というちょっとした小説がある。お見せするほどのクオリティではないけど、覗いていいねしてシェアしてくれると嬉しい。たまたまスマホのメモ漁りをしていたら二年前に書いたこれが出てきたので、そのまま投稿した。その小説には電車に乗るシーンが出てくる。メモ漁りをしている時、その電車が新幹線だと思い込んで読んでいた。しかし、よくよく思い返してみれば、茨城県民(ひたちなか都在住)の僕が新幹線なんて未知の乗り物を思って書くわけがないのである。なぜなら茨城には新幹線が通ってないのだから。そのことから鑑みるに、執筆時の自分は大好きな常磐線ときわ・ひたちの事を思っていた。しかし2年ぶりに読み返してみれば新幹線に早変わりだ。喫煙所が付くのなら大賛成だ。

 そんなことはさておき、執筆時の自分と変わった僕に気が付いて、わくわくした。今日の自分は2年前と違う。明日もきっと違う。変化は楽しいものだ。変化を受け入れてくれる友人あればこその発言でもあるが。ともかく

僕は今日までの僕を背負って明日に歩き続ける。結論は同じなんかじゃないかもしれない。

もう一度言うよ。

これは知識とするにはあまりにも価値の低いものであるが、知覚することこそその真価を発揮する。

価値観は元来流動的だ。これを知っている人とそうでない人の成長速度は思っている以上に大きいはずだ。だって変化を恐れず、画一的な正義を信じ込まないから。経験から培われた価値観は、変わりゆく時代に対応できない。自分の正義を決めつけてしまっては、見えるものも見えなくなる。変化を恐れずに行きましょう。今のあなたは、過去の積み重ね。過去を恨むのではなく、優しく抱きしめて、違う一歩を踏み出して。


最後まで読んだ人へ。

最初に書いたことを思い出してみて。「もし、あなたが、これより後に並ぶ文を読んで何かを学ぼうと思っているのなら辞めた方が賢明だ。」なんて言ってたくせに、もともとは書くつもりじゃないことまで書いてしまっている僕。執筆時と執筆後がもう違うもん。記録のつもりが、伝えたくなっちゃったもん。こんくらいあやふやでもいいんじゃないかな。
さあ、Let’s 流動体!

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