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小説 コンタクトレンズ #5

 店を出る時、時計を確認した。どうにか終電に間に合いそうな時刻だった。
 4人で飲み始めてから早々に菜生の酔いが回り、ひとしきり大きな声で話をした後にウトウトし始めた。明日は休みだと聞いていたので、菜生の彼氏に連絡しておいて正解だった。彼氏の園田そのだくんは会計をする直前に現れ、私たちの前で大きな図体を恐縮そうにすぼめた。
「瑞里ちゃんごめんね。今日終わったら連絡するって言ってたのに来なくて。心配してたんだよ」園田くんはいつ会っても童謡に出てくるクマを連想させる。丸い眉毛を下げて、背を丸めて、これからもよろしくお願いします、と伊織さんと遥さんに頭を下げて、文字通り菜生を担いで店を後にした。会計は菜生の分をきっちり払って。
「玉置の彼氏意外だな。もっとこう、見た目の良さとかを重視する方かと思ってた」
 遥さんが遠ざかる園田くんの背中を見て言う。黄色のパーカーが、のしのしと揺れている。満月が歩いているみたいで、なんだかおかしい。
「前は顔重視でしたよ。でも高校3年生の時に園田くんがななに告白して、なながふざけてインターハイで優勝したらデートしてあげるって言ったんです。園田くん、柔道してるんですけど本当にインターハイに行って」
 その時の菜生の焦った顔がよみがえる。
「みず、ヤバイ、園田優勝したらどうしよう」予選の時は余裕の表情だった菜生が明らかに焦っていた。その割に結果はこの目で見ないといけない、と最後の大会を見に行くと言って聞かず、ついに私も狩り出された。園田くんは2回戦敗退だった。惜敗だった。普段の穏やかな様子からは想像できない試合での気迫と、終わった後に頬を拭うことなく涙を流している姿を見て、菜生はいつになく真剣に「私最低だな」と呟いていた。その日を境に、菜生が園田くんに接する態度が変わった。からかう言葉は同じでも、そこにほんのりと敬意と親しみが滲み始めた。まさかそれから付き合うことになるとは思っていなかったので、事実を聞かされた私は驚きすぎて、手に持っていた飲みかけのジュースを机に落とし床にぶちまけた。「もう何してんのよ」と膨れっ面の菜生が言う。ポケットティッシュを引き抜き、黙々とジュースを拭く菜生。照れた横顔は、今まで知る菜生で一番可愛かった。
「ななには、面倒見のいい園田くんがお似合いなんです」
 ペラペラと菜生と園田くんの馴れ初めを話してしまった。それくらい、私も酔っているらしい。
「いい彼氏だねぇ」
 明るく笑って、遥さんが私を見る。
「あと、いい友達だよね」
 顔の温度が上がる。
 そんなことを知るはずない遥さんは顔を近づけ声を潜める。
「伊織さん、ごめんね。悪い人じゃないんだけど、結構ズバズバものいうタイプだから」
 ふと店内に目をやると、伊織さんはカウンターの女性と話していた。
 乾杯の後、必死に平常心を保ったけど、きっと動揺が見えていたのだろう。私が問いには答えず曖昧に笑っていたら、菜生が「私は別れて良かったと思います」と言った。すぐに伊織さんが「それを言っていいのは神田さんだけだろ」と言い放ち、その場の空気がピンッと張り詰めた。「ちょっと外で吸ってくる」と伊織さんが席を立ち、姿が見えなくなった途端、菜生は勢いよく口を開いた。泣きそうな声で、しのくんが変わった性格なこと、それに合わせる私の元気のない姿を見てられなかったこと、仲がいい子の好きな人を悪く言いたくないけど、ずっと複雑な気持ちを抱えていたことを喋り尽くした。そして伊織さんが戻る頃には、大人しすぎるくらい静かになっていた。リミッター完全に外れ暴走した後、電池が切れたように。
「びっくりしました。ななが、伊織さん優しくて良い人だって言ってたから」
「ねぇ。見えないよね」
 伊織さんはまだ話してる。どうも女性が引き留めているように見える。
「誤解されやすいけど、ああ見えて優しいところもあるよ。玉置の彼氏ほどじゃないけど、面倒見もいいし」
「そうなんですか」
 なんてフォローして俺の株あげとくわ、と言って遥さんは店内に入った。ふう、と息を吐くと春は近いのにまだ白く残った。もう、帰っていいかな。見上げた夜空の星が、疲れ目からかぼんやり見える。
「お待たせ。瑞里さん、帰る?」
 二人とも店内から出てきた。
「帰ります。今日はありがとうございました」
「うん、お疲れ。もし玉置にすぐに会うことがあったら謝っといて」
「謝る?何を?」
「それ言う?」
 遥さんが苦笑いする。伊織さんは何食わぬ表情。容姿は伊織さんの方が目を惹くけど、話しやすい遥さんの方が気遣いもできるし接客に向いてそう。今日は3人じゃなくて、遥さんもいてくれて本当によかった。
「じゃあ失礼します」
 会釈して、駅に向かって歩いた。遥さんがまたね、と言ったので振り返ってぜひ、と言ったけど、多分、またはない。今まで会った菜生の知り合いの中で、誰よりも会いたいと思えない。自分の恋愛の現状を知られてしまった以上、次に顔を合わせたらきっとその話題になってしまう。それにしのくんの話を菜生がしている時、遥さんの前で擁護することができなかった。しのくんを庇ったら未練がましく見えてしまう。失恋を引き摺る情けない姿を記憶されたくない。そんなつまらないプライドのせいで平気な素振りをして、疲れた。自分に吐いた嘘で、罪悪感が込み上げる。もう、会いたくない。
 一人になってできた思考の空白に、また後悔の波が押し寄せる。今日はそれに身を任せていい気がしたけど、せめて帰宅してからにしよう。人通りが多い道だから大丈夫だろうと、鞄からイヤホンを取り出し耳にはめる。指が冷たい。店の前で待つ間に随分冷えてしまっていた。不意に頬を夜風に撫でられ、急速に酔いが消えていく。
 一旦道の端により、スマートフォンを操作して曲を選ぶ。再生する瞬間、手に持った端末の向こうで別の手がひらひらと動いているのに気付いた。
 弾かれたように右を向くと、伊織さんだった。
「どうしたんですか?」
「送るよ」
 マスク越しで、さっきよりさらに表情が読めない。駅の方を指差されたので、頷くと歩き出した。慌ててイヤホンをしまう。
 会いたくない、なんて思っていたことが伝わっているはずないのに、申し訳ない気持ちになって断れなかった。
「あの」
 会話をしないのも不自然かと思い、話しかける。
「何?」
「さっき話してた女性、いいんですか?結構話し込んでいたから」
「ああ。前に店に来たことあるらしくて。良かったらまた来てって言っただけ」
「店、にですか」
「店にだよ。変?」
「いや変とかでは」と言葉に詰まった。この人に疑問系で返されると身構えてしまう。
「遥がうまくやるよ」
「遥さん、さっきの人と?」
「さぁ。知らない」
 なな、遥さん。この人、どこが優しいところなんでしょうか。それとも私は優しくされる価値のない人間に分類されたんでしょうか。
 なんだか、段々腹が立ってきた。なんで初めて会った人に私は元彼をダメなやつ認定されて、いや、まだされてないけど、その一言にこんなに揺さぶられなきゃいけないのか。2歩ほど前を歩く黒いコートの後ろ姿が憎く見える。
 しのくんなら。しのくんだったら、歩幅を合わせてくれる。分け合ったイヤホンから流れる曲が途切れない距離で。このバンドの新譜いいねとか言い合って。駅に着いたら、瑞里、帰ったらちゃんと連絡入れてね、って言って。瑞里。しのくんの声。黒いコートが先を歩く。しのくんは、何着てる。不揃いの襟足、黒い髪。ねぇ。この季節にあなたが着ている服を、私は一つも知らない。
「そんなにゆっくりで終電大丈夫?」
 振り向いた顔に目が覚めた。ばかで嫌になる。
「いいです。最悪、間に合わなかったらタクシー使います」
「それなら最初から使えばいいのに」
 捕まえようか?と少し道に出て、伊織さんが腕を上げかける。その些細な行為で、今日一日自分の中に生まれた色をつけていなかった感情たちがすべて紅蓮に染まり、激しく燃え盛り一気に喉元まで迫り上がった。胸が苦しい。だめ。拳を強く握る。やめて。震えてしまう。止まれ。言葉を噛み殺す。勝手にしないで。もう、放っておいて。
「知らないって、冷たいですね」
「何の話?」
 長い腕が中途半端に空を切る。目の前にいる人は怒るでもなく、不思議そうに尋ねた。
   ごめんなさい、気にしないでください。頭の片隅で理性が言葉を用意したけど、口からその音が出てこない。
 やがて足音が近づき、俯いた視界に見慣れないブーツが入ってきた。
「遥のこと?」
 低い声が降ってくる。
「遥は大人の男だし、さっきの女性のことも送って帰るはずだよ。何の心配もいらない。それに、店に来たことがある客なら、尚更」
 頷くこともせず、必死に瞼に力を入れる。ごめんなさい、まだ出てこない。
「何か傷つけた?」
 ほんの少しだけ優しくなった声色に、張り詰めていた体が不意に緩みそうになって耐えた。
 反応のない私に、伊織さんは少し間を置いて続けた。
「神田さんが何を言いたいのか理解できない。察してほしいなら、それは無理だ。僕はきっと、人より他人に興味がない。遥が客と飲みに行こうが、玉置さんがどれほど神田さんを心配しようが、君がどんな人と付き合っていようがどうでもいい。知らないでいいって思ってるだけで」
 興味がない。
「冷たいと言うなら、それでもいいよ」
 顔を上げたら、伊織さんと視線がぶつかった。透き通った茶色の中に、まっすぐ自分が映っている。
 ——それを言っていいのは神田さんだけだろ。
 本当は、その言葉の真意が気になっていた。あの状況でその言葉だけが私としのくんを守ってくれたように聞こえたから。でも、どうして会ったこともないのに思っていたけど、今少し近づいた。他人に興味がないこの人にとって、他人が話す他人の恋愛など特に白けた内容なんだろう。
 そっか。今の私は都合悪く受け取った第一印象だけで、伊織さんという人を決めつけてしまうほど余裕がなかった。たまたま一緒に飲んだだけ、送ってもらう義理はない。帰ってくれてもいいのに、それをしない。多分私が菜生の友達だからで、それ以上の理由はきっとない。これを、優しさと呼んでもいいかもしれない。
「何だったら」
 それだけで一息使ってしまった。視線は逸らさない。知りたい。吸い込んで、言う。
「興味が、あるんですか」
 その目が一瞬見開き、すぐ閉じられた。描いたように精巧な二重が潰れて、目尻に皺がよる。無邪気になる。この人笑うと、子どもみたい。そう思った途端、体の強張りがほどけて胸に熱が宿った。
「興味か」笑顔が消え、顎に手を添えて考える素振りをする。そしてまたパッと視線を合わせて言った。
「神田さんに興味がある」
「は?」
 伊織さんは徐に腕をあげ、私の頭に手をかざした。反射的に後退りする。
「神田さん、身長どれくらいある?」
 なんだ身長か、と安堵してすぐ、直球でコンプレックスを刺激され返答に迷う。
「175はあるよね」
「いや、ないです。4です」
「今日はヒールじゃない、か」
 足元から頭の先まで、伊織さんの視線が動く。なに、なになに。
「うちの店舗でさ、服着ない?今いる女性スタッフは小柄な人が多いから、着こなしの幅が広がらなくて。スタイル別にSNSにあげて、反響を見たいんだよね。協力してほしい。もちろんバイト代として報酬は出すよ」
 理由を聞いても、思考が追いつかない。え、とか、は、いや、とか言葉にならない声ばかり出る。焦る私を見もせず、伊織さんはポケットから名刺いれを取り出し、一枚抜く。
「この、僕の名前の下に店舗の住所と、SNSのアカウント。どちらにせよ返事はほしい。連絡がなければ玉置さんにこっちから聞くから」
「え、それはちょっと」
 強引では。
「じゃあよろしく」
 力は緩めても握ったままでいた片方の手を掴まれ、名刺を握らせられた。伊織さんが触れた時その手は驚くほど冷たくて、自分の熱が伝わったかと思うとさらに体が火照る。
「もうさすがに終電はないか。タクシー拾おう」
 伊織さんが道に向かって腕を上げると、タイミングよく向かいからタクシーが来た。「僕は別で拾うから」と促され、乗車する。
「また」
 もう表情の読めない顔。笑顔は見れそうにない。
 浅く礼をして運転手に目的地を伝えようとした時、閉まりかけたドアが止まった。車体が小さく動く。
「あと、余計なお世話だろうけど」
 声の先、伊織さんがドアを掴んでいた。
「君がどんなに好きでも、人に話せないような恋愛はするもんじゃない。それに、友達を心配させるような恋愛も」
 言葉が鼓膜を突き抜け脳を深く抉った。
「次は、いいヤツと逢えるといいね」
 ドアが閉まる。自宅最寄りのコンビニを伝え、発車する。
 座席に体を預けると、頭に鈍い痛みが走った。すっかり酔いは覚めたのに、アルコールは余計な代償だけ残してくる。少しでも楽になろうと、瞳を閉じる。見上げた時の伊織さんが瞼裏で、その声が耳奥で反芻される。消したくて頭を振ると、また痛む。
 しのくん。私は弱い。すぐに流されてしまう。
 人に話せないくらい、菜生に心配されるくらい、あなたはダメな人だったろうか。
 車内のあたたかさと小刻みな振動に、ふっと意識が遠のく。いっそのこと手放せば楽になるのに、理性が抗い、強く目をつぶってまばたきをする。コンタクトがずれる違和感に、今すぐ外してしまいたい衝動に駆られる。
 だめ。そうしたら見えなくなる。コンビニから家までは歩いてすぐだけど、ぼやけた視界では心許ない。マンションについても鍵を鍵穴に何度か差し違えそうだし、玄関に入っても手探りに照明のスイッチを見つけて、ベッド際のテーブルに置いてある眼鏡まで距離がある。だから、外すことはできない。
 それに、心はもう何が正しくて何が間違っているのかわからないのに、形あるものの輪郭すら曖昧になってしまったら、きっと帰れない気がする。バイトに行って、大学に行って、時々菜生に会う、しのくんがいない現実に戻ってこれなくなる。焦点があわない世界にいたら、私はベッドの上でずっと目を閉じて思い出を繰り返す。ゼミで見つけたひょろりと長い後ろ姿、名字と名前を間違って折り曲げた体、右回りのつむじ。暑い夏の夜、帰り道に繋いだ手、キス、好きです、順番。記憶の宝箱には楽しかったことだけ詰まっていて、いつまでも眺めていられる。一番よく光るのは、電車の窓から見た光景と、しのくんの目の中の海。宝ものは現実を生きていたらどんどん色褪せる。フィルターがかかってアンティーク調になって懐かしいと呼んでしまう。それならいっそ、最初から無くなってしまえばいいのに。それができないなら、現実から一番遠い綺麗な場所で、あの日の空と海が光で混じった水平線みたいな場所で、どこにも行かず何も見ず抱きしめ続けていたい。匂いも音も色も、これ以上離れていかないように。
 まばたきを繰り返していたら瞳が潤ってきた。暗闇の中、前方の料金を表示するメーターが音を立てずに上がる。
「そこ、左に曲がってください」
 運転手がウィンカーをつける。オレンジのライトが、カチッカチッと点滅する。左に車体が曲がると、蛍光緑の画面に映る数字がまた変わった。手の中の名刺に目を落とす。紙の色は夜に紛れてわからない。文字だけが金色に浮かんでいる。星座みたい。
 無理だ。
 生きている限り、過去は今日で上書きされる。
 嫌でも新しい色が塗られる。こうやって。

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