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小説 コンタクトレンズ #6

 次の日は大学に行った。人通りのほとんどないキャンパスは閑散としている。もう半月ほど経てば新入生で溢れかえり、膨らんだ桜の蕾も開いて、ぐんと春らしくなるだろう。数年前の自分もその中にいたなんて、ふと夢を見ていた気分になる。人のいない食堂、中庭の茶色い芝生を横切る。静かな建物のあちこちに面影が映る。あまり長居したくなく、足早に研究室へ向かった。
 ノックすると、どうぞ、と返事があったのでドアを開けた。そこに広がる景色を見て、視界から全身に懐かしさが駆け抜けた。中央にはディスカッションに使う長机がそのままで、左の壁沿いにはパソコンデスクが並び、上に取り付けられたスチールの本棚にはぎっしり書物が並んでいる。右の壁の手前に洗面台。その隣のラックには何かしらの資料と、年季の入ったケトルが置かれ、側に市販のインスタントコーヒーとティーパックが散らかっている。部屋の奥は、ブラインドで覆われた窓を背に、ライトオークルの木製の机。両腕を伸ばしても広い大きさのそれは、壁と他の家具が白一色の部屋だからか、優しい色でも存在感がある。いや、周囲の机上より片付いているからか。その机で眼鏡を頭までずらし恐らく論文を凝視していた鈴村すずむら教授が、顔をあげ、白い眉を下げた。
「神田さん、お久しぶりですね」
 挨拶をしようとした時、先客に気づいた。左手、一番近いデスクに座った背中が動き、心臓が跳ねる。
「おおっ神田さんじゃん。久々。てゆか、誰が来ても久々だけど」
みねくん、久しぶり。教授、ご無沙汰してます」
 春休みだし、3年生は単位も足りてる子が多いから、こんな時期にゼミの同期に会うなんて思わなかった。黒いニットとくたびれたスウェットを履いた峰くんの姿は数ヶ月前ゼミの飲み会で見た格好と全く同じだ。見渡す限り、この研究室も。教授も。最後に訪れてから時が止まっているみたい。自分のよく知る風景に、来るまでにざわついた心が凪いでいく。
「神田さんが全然来ないからさ、見てよこの研究室の散らかり具合。ねぇ?せんせぇ」
「峰くんが片付ければいいでしょ」
「専門分野外なんだよな。俺は心理学を学びに来てるから」
 ふざけ具合も相変わらずだ。
「峰くん、君はレポートを終わらせるために来ているんでしょう。ここで捗らないなら図書館に移動しなさい」
 教授が穏やかな口調で嗜める。そりゃないよう、と峰くんが口を尖らせる。
「これ落としたら4年になってまた授業出ないといけないのに」
「え、単位足りてないの?」
 つい口を出した。峰くんは両手を頭の後ろに持ってきて仰反り、わざとらしいため息をつく。
「誰もがこの時期に全ての単位を取り終えてると神田さんは本気思ってるの?自分基準で物事を見てません?」
 自分が悪いんじゃん、と言ってしまいかけて押さえた。
「はいはいすみません、邪魔しないので手を動かしてくださいね」
 ひっでーな、とパソコンに向き直る。日頃、講義は遅れてくるか、早くから後ろの席を陣取り寝ているかの彼。課題の提出は良くてギリギリで、そのせいで取りこぼす単位もあるらしい。反面、ゼミでのグループディスカッションになったら人の意見を粗を厳しく突いてきたりする。以前、個別の研究テーマを各自発表した際、峰くんと若干似通ったテーマを取り上げた女子学生が専攻理由について追及され、論破された。相手のテーマに対する興味が彼には伝わらなかったのか、発表の最中に手を挙げ「話している体験談とテーマに相違がある気がする」と話だした。責めるような口調ではなかったが虎視眈々と自分の考えを喋り、最後に「となると、テーマはこれじゃないと思うけど?」と問いかけた声は鋭かった。一つも反論できなかった彼女がついに泣き出した時、そこで「わっごめん!わかり辛かった?」と本気で焦りだす様子も的外れで奇妙だった。教授に静かに批難されたが、ポカンとした顔でやっと峰くんは口を結んだ。言いようのない空気の中、私は手に冷たい汗を握っていた。怖かった。彼は悪意なく本当に思ったことを言っているんだろうが、その眼と言葉で真っ直ぐすぎて、対象に逃げる隙を与えない。狙いが定まったら躊躇わず射る。自分にその矢を向けられたら、敵わない。
「あっそういえばさ」
 峰くんがまた椅子の背に体を深く預け、顎を上げた。パサパサの茶色い前髪の下、夜行性の動物に似た縦長の瞳がきゅうっ狭まる。あ、と思った時には、もう遅い。
「東雲と別れたって本当?」
 喉を、狙われた。声が出なかった。
 用意していたつもりの答えは音にならず、唾を飲み込むのと同時に頷くだけで精一杯だった。
 はああっと、さらに特大のため息を吐き、峰くんはパソコンのキーボードに項垂れた。画面の中、黒く並んだ文字の続きから、急速に空白がページを埋めていく。真っ白になっていく。「ちょ、レポート」と声をかけても動かない。額でスペースを押し続けたまま言った。
「いや、東雲から聞いて、嘘だと思ったわけじゃないけどさ」
 ああ。しのくん、別れたこと話してたんだ。責める理由はないのに、小さくショックを受けた。他人から別れた事実を聞かされるのは想像以上だ。あれから別々の時間を過ごしていることを改めて認識させられる。私にも、しのくんにも、等しく同じ時間が流れているけれど、体感はきっと違う。会っていない間をどう過ごしたのかは知らないから、もし立ち直る努力とか忘れる努力とかして、自分より心が前に進んでいたら。峰くんに話して「別れて良かったよ」なんて話していたら。普通に笑っていたりしたら。それを願って離れたのに、置いていかないで、先に行かないで、と矛盾する気持ちがまた体をいっぱいに満たす。
 私にもう興味を失ったのか、峰くんは一瞬見せた張り詰めた緊張を解いて、そうかぁ、と言いながら頭を横に向けた。キーボードに接する頬で、真っ白になった画面が今度は意味のない文字の羅列で覆われていく。そのあからさまに気落ちした峰くんを見て、自分ら二人の問題にこんなに巻き込んでしまっていたっけと不思議に思った。そういえば、付き合っているとしのくんが峰くんに話したらしい日、彼はわざわざ私のもとまでやってきた。講義室の重たいドアを勢いよく開けただけで注目を浴びるのに、峰くんは「神田さん!」と叫んで講義中の全員の視線を奪った。そして固まる私を見つけた途端、見たことのない満面の笑みで走ってきて、腕を掴み上下に激しく揺さぶった。周囲が唖然とする中で「良かったな!しの!ありがとう!」と盛大に祝われたのだ。本当に恥ずかしかったんだから、と後から何故かしのくんに愚痴ったら、細い月の目をもっと細くして涙を流すほど笑っていた。3人で話す機会はそれほどなかったけど、しのくんの口から峰くんの名前を聞くことは度々あったような気がする。2人は私の知る以上に親しかったのかもしれない。
 黒い気持ちに目をつぶり、彼の笑顔の面を思い浮かべてごめん、と口の中で謝罪した。
「神田さんは、元気なの?」
「えっ、私?」
 一瞬聞こえたのかと思って驚いた。脈絡がないとわかっても焦った。
「うん、元気。元気、元気」
「本当かよー」
 キーボードの上から横目で、訝しげな視線を投げられる。質問の意図を予想した時、微かな希望がよぎった。
「あの、しのくん」
「さぁ」
 峰くんは体を起こし、げぇ、と言いながら画面のページを埋め尽くしている不要な文字を削除し始めた。目の前の明度がふっと下がる。今のしのくんの様子を聞けるかも、なんて思った。それ以上にしのくんに気にかけてくれているのだろうか、淡い期待がよぎった。そもそも今の質問は、しのくんへの彼なりの気遣いかもしれない。彼はしのくんに私と会ったことは話しても、私にしのくんの話はしないだろう。たぶん、彼の中での私の位置付けは同じゼミの学生で、しのくんの元彼女というだけだ。
 しのくんが変わらず自分の生活を守れていますように、と本気のはずなのにどうしてか仮初めに聞こえてしまう祈りを捧げる。もう何度目かわからない、こうして打ちのめされるたびに心で言い続ける。それなのに、やがてまたふとしたことで想い出に溺れて、次第に「ああすれば良かったのかな」が襲ってきて立ち止まる。そしたら、いいや私たちは間違っていなかった、分かり合えなかったから仕方のないことなんだと、無理に言い聞かす。じめじめとまとわりつく後悔を一切合切拭い振り払って、そしてまた祈る。行ったり来たり繰り返す。まるでミリ単位、這うようにして、あの洗面所から今日まで進んできたはずだ。今もまた些細なことで過去に留まりそうになりながら、私の健康を知っても知らなくてもしのくんこそ健やかであってほしい、とカサついた唇を動かす。
 目の前の頭が片手で乱暴に掻かれる。生え際がもうだいぶ黒い。もう片方の手の指はまだdeleteキーを押している。あー、と声を漏らしながら、途中、
「かなわなかったか」
と、峰くんはつぶやいた。
「峰くん、君は人の問題に横槍入れる暇はありますか?」
 教授の一声で、やっと峰くんから視線を逸らすことができた。
「はいはーい」
 消し終えたのか、峰くんの手元から軽快にキーを弾く音がし始める。
「ところで神田さんは話があってきたんでしょう。進路のことだと思いますが、いかがですか」
「あ、そうです。そのことでご相談が」
 教授のデスクに近づき、勧められた近くのパイプ椅子に座る。
「鈴村教授、私、やっぱり院試を受けようと思います」
「そうですか。君が研究に携わってくれることは嬉しいですね。ただこの4年間で得た知識で就職活動するのにも、申し分ないとは思いますが。その考えを尋ねてもいいですか」
 不安気に見上げた。教授の目は優しい。
「あなたが、率直に思ったままで」
 心がゆるむ。当然だけど、進路としのくんのことは別だから、これまでぬるい答えは出せないと考えを巡らせ続け、熱くぼやけていた頭の霧が少し晴れた。峰くんがここにいるのは想定外だが、素直に言いたい。
「私は、人の行動を分析していく中でその人を知る、心理学が好きです。その真意の全てをわからなくても、ある程度その人となりはわかるというか、その心に近づくことができると思っています。ゼミに入ってからそれを研究することが楽しくて、いろんな人の心理を想像したり分析するうちに、客観的に他人を見る目が少しは養われたと思うんですが、私、それじゃあ何ができるのか、何をしてあげるのがベストか、よく、わからなくて」
 どんな人か分かっても、何を求めているのか見えても、何がベストなのかわからない。教授は目を閉じる。針先ほどでも伝わってほしい。
「知らなければ何もできませんが、知ったとしても、じゃあどうすればいいんだろうって立ち止まる気がします。終われば、どうすれば良かったんだろうって後悔しそうです。このまま社会に出て経験する中でその術は身につくかもしれませんが、私はまだ、何ができるか知りたいです。調べたいです。まだ深い分析が、必要だと感じています」
 一息でしゃべり、乾いた口を閉じた。教授はまだ動かない。心臓が喉元できた。ひどく近くで脈打つ音がする。
 目の前の皺がよる、まなじりが下がった。
「人の心は、そうですね。真意まで辿り着くのはとても難しい」
 教授の低い声にほっとして少し泣きそうになる。姿勢を正す。
「人は、自分自身で真意に気づいていない時もあります。私たちが研究する心理学は、社会に出たときには対象の人の行動を観察し、すでに用意された枠組みにその心理をあてはめて、この人はこういう傾向にある、と決定することが多いかもしれない。方向性は違いますが占星術もそうだ。過去の膨大な研究結果から、その星に生まれた人を分類して一括りにする。人を研究する多くの学問がそうかもしれませんね。でも、あらゆる研究が継続されているように、終わりがない。人の心は、見えない。あなたも、こんな人間だと言われて安心する時もあれば、あらゆるジャンルに自分を入れて決めつけないでくれ、と思うこともあるでしょう」
 頷く。峰くんのキーを叩く音が消えている。
「人の心の真意に近づくには、たくさんの方法がある。そのうちの心理学を神田さんが選んだならば、やはり多くの行動パターンから心理を研究しなければいけません。あなたが言った何をその人に与えるのが最適かを追求するのも大切です。だけどね、神田さん。そこに、他の誰でもない神田さんなら何ができるか、を研究することも忘れないでいてください」
 光が目に差した。ブラインドの隙間から零れる、陽のせいだけじゃない。
「目の前の人も一人の人間なら、あなたもそうです。誰でもできる方法のベスト、だけではなくて、まだ勉強し続けるなら神田さんのベストを探さねばね。ともに研究していきましょう。無論、社会経験と同じく、実践も積んで」
 机に肘をつき組んだ両手に顎を乗せた、教授のその口元は綻んでいる。はいと言った声は、思ったより掠れてしまった。だけど邪念が、この時ばかりは消えた。
 院試の日程と対策を話そうと鞄から筆記用具を出そうとしたら、後ろで椅子を引く音がした。振り向くと峰くんがドアノブに手をかけていた。
「俺やっぱ図書館行くわ」
 そっけない物言いとドアの閉まる音が大袈裟に耳に響いた。
 怯んだ自分を奮い立たせ、いつもより強くシャープペンシルをノックした。

 焦げ茶色の扉を引く。ずっしりとしていて、意外と重い。ドアベルを鳴らす側に立つのは数えるほどしかないから、少し緊張する。
 いらっしゃいませ、という声と暖房のぬくい空気と、鼻腔に流れ込む甘い香りに迎えられた。声の主は馴染みあるパートの佐々木さんだった。あら、神田さんじゃないっ、と高い声がさらにワントーン上がる。
「こんにちは」
「元気?まだまだ寒いわね。今日はどうしたの?」
「来月の希望休書きにきました。あと、何か買おうかと思って」
「もったいない。店長が失敗したやつ持って帰ればいいのに」
「ちょっと佐々木さん、人聞きの悪い。私失敗しません」
 厨房から杏珠さんが出てきた。佐々木さんは見つかった、と舌を見せ、ショーケースの内側から逃げ出し焼き菓子を並べ直す作業に入る。
「わざわざ休みの日に。シフトなんてLINEでいいのに」
「近くまできた帰りなんです」
「そっか。じゃあホワイトボードに書いちゃって。作業終わったからそのまま入っていいよ」
 杏珠さんが親指を立てた手で後ろを指す。失礼します、と横を抜け、厨房の入り口に置いてあるアルコールを手に吹きかける。一番奥の、調理器具を重ねた背の高いステンレスのラックの裏、粉類を保管している業務用冷蔵庫にシフトを管理するカレンダー型のホワイトボードが2つ並んでいる。そのうちの一つが翌月用だ。希望する休みを赤字で埋めていく。
「お、来月出られる日減る?」
 気づいたらすぐ側に杏珠さんが立っていた。化粧っ気のない横顔だけど、眉は綺麗に整えられていて、まつ毛はカールしている。マスクで隠れていない部分の肌はつるんときめ細かい。しっかり手入れが行き届いた清潔さは、隅々まで拭きあげられ銀色に光る厨房とよく似てる。隙を見せない大人の女性。
「実は、夏に院試があるので、それに向けてちょっと勉強時間を確保したくて」
「えっ就職しないの」
「はい、院で研究するつもりです」
 うえーかっこいーっと杏珠さんが大きい声で言うから、なんとも照れていたたまれなくなった。それを気にせず私の肩に手を置き、杏珠さんは朗らかに笑う。
「私は勉強嫌いだし、さっさと手に職つけたいから大学院とか意味わかんないけど、いいね。好きならとことん勉強すべきだね」
 つられて笑ってしまった。思ったことを自分の尺でスパンっと言う、この人の性格は本当に気持ちいい。
「それにあれでしょ、就職しないってことはバイト続けてもらえるんでしょ?」
「はい、まだお世話になります」
「良かった。助かるわ」
 杏珠さんはちょっと待ってねーっと言いながらその場を離れた。赤いマーカーを置いてその様子を覗き込むが、ラックに隠れてちょうど見えない。近くに寄ってもいいだろうけど、私服姿で店内をうろつくのは気が引けて、おとなしく待つことにした。その間、鞄が小さく振動した。スマートフォンの画面を見る。菜生からだった。
『昨日本当にごめん!途中からマジで記憶ない』
 文字の最後に土下座の絵文字がある。菜生が使う絵文字は限られていて、これは最も頻度が高い。『園田くんに謝りなよ』と送信すると、『さっき起きて言った』と返ってきた。顔を上げて壁掛け時計を見る。ずいぶんとまぁ、遅い朝だこと。二日酔いの悲惨な姿で、ベッドの中これを入力している菜生が目に浮かぶ。きっと園田くんは言われるままに水や充電器を運んでいるんだろうな。申し訳ないが、そんな部屋の様子を思い浮かべて少しにやける。
 そうしてたら画面に次の文章が表示された。『伊織さんがモデル頼んだらしいじゃん!』文末には目がハートの絵文字。
 途端に昨夜の別れ際の出来事が鮮明によみがえった。鞄の中から財布を取り出す。名刺はカード入れにしっかり挟まっていた。抜き取り、明るい照明の下で見ると、紙の色は深い紺色だった。余計にそこに並ぶ店名と名前が星みたいに光って見える。
 忘れていたわけじゃない。だけど、現実味がなかった。深夜の街角も。綺麗な顔、それが目の前で崩れた瞬間も。「興味がある」と言われたことも。名刺を渡される時に触れた冷たい手も。そして、
――君がどんなに好きでも、人に話せないような恋愛はするもんじゃない。
 細部まで覚えているのに、まるで夢のようで。それなのに、手に残るこの紙切れと脳に傷をつけた言葉が、現実だったことを激しく主張してくる。日記に書くことがないような一日で終わらなかった。ページにコーヒーをこぼしたみたいな、シャツにミートソースを飛ばしたみたいな、消えない印象。薄れてもあとからでもじわりと浮かびあがって、私の漂っていたい過去の前にこの日は立ちはだかる。
 金色の文字をぽつり、読み上げた。
「んー?なんか言った?」
 それを拾った杏珠さんから声をかけられる。杏珠さん、と続ける、
「いおり、って、どっちだと思います?名前」
「えっ名前?」
 うーん、と唸った後、「それって神田さんの好きな人?」と聞かれた。は?いや違いますよ!と予想外の問いに全身の力で答える。声の先を見ると、ニヤニヤした杏珠さんと目があった。
「その質問の仕方なら男だな。正解でしょ」
「いや、正解ですけど、なんですか。驚いた」
 心拍が大きく脈を打っている。脇にどっと汗をかいたのに血液は冷たくて、名刺をつまむ指が感覚を失う。
「なんだ。つまんない」
 拗ねる杏珠さんに、こっちきて、と手招きされる。広い作業台の端にケーキがいくつか並べられていた。ショートケーキにモンブラン、人気の季節のタルトもある。「好きなの持って帰っちゃって」と売り場で使う箱を組み立てながら言われる。
「いやいや買います。そのつもりだったんで」
「いいの、いいの。ちょっといくつか生地の配合変えて作ってみたんだ。店頭にはまだ出さないんだけど、味は変わらないから。感想聞かせてよ。若い子の意見重視」
 私より慣れた手つきでケーキを入れていく。ありがとうございます、と、言葉が口から出る前に一度胸に広がる。裏のない優しさがなんだか家族みたいで、こんな人が姉にいたらいいなと素直に思う。こんな人になりたかった。こうして世話を焼かれるところと、アルバイトながら仕事で頼ってくれるところが絶妙で、この姿勢は他の従業員に対しても変わらない。知り合ったのはほんの少し前なのに、遠慮ない距離が不思議と落ち着く。親しみやすさは人柄なのか、努力なのか、どちらでも杏珠さんという人の魅力だ。
「実は、最近会った人に言われたんです。私彼氏いないんですけど、少し前までは、いて」
 自然にしゃべっていた。心のたがが外れてしまっていた。
「うん」
 相槌に一瞬話し始めたことを後悔したが、遅かった。一呼吸おく。今なら言えそうな気がする。
「ひと、に、話せないような恋愛はしないほうがいいって、言われました」
 杏珠さんの動きが止まった。視線の鋭さを肌で感じる。その目は見れなかった。一息でしゃべる。
「やっぱりそうですよね。他人が心配するような恋愛って、私でもきっと止めるし。まぁなんていうか、仲が良い友達に心配されてたんです。別れたって話したらその子、嬉しそうで。そんなに心配されてたんだって思ったっていうか。ダメな人だったんだって。あ、友達はさっきの名前の人じゃないんですけど。なんだろ、でも、ただ私、別にそんな悪い人と付き合ってたわけじゃ」
 りんご。
 顔を逸らした先に、杏珠さんの作ったケーキがある。アップルパイ。
 いっとき、毎朝欠かさずに食べていたそれと同じものだけど、姿形を変えた、りんご。
――綺麗だね。
 誰か教えて。もっと、ちゃんと教えて。
 しのくんの、どこが、何が、だめだったのか。
 一番近くで生活を共にし、しのくんという人を知った上で、あの日人工的な海の中で泣いたのは私なのに。一緒にいるのが辛くなったのは私の方なのに。どうしてこんなに別れを受け入れられないのだろう。
――かなわなかったか。
 あの時、峰くんはつぶやいた。私にじゃない、きっとしのくんにでもない。風の中、頼りなく灯っていた蝋燭の火がついに消えてしまって、握っていた花火をつけることができなくて、途方に暮れるみたいに。研究室の奥の窓の方向、何もない空間を一点見つめてた。寂しい、って体が言ってた。真意は、わからないけど。
「そいつ、なんなの」
 震えた声は私じゃなかった。
 顔を上げたら、笑っていない杏珠さんがいた。まばたきをしない目の端が、わなわなと揺れている。
「そいつ、とは」
「そんなこと言うやつ。話せない恋愛はしないほうがいい、なんて、はあ?」
 長く息をついたあと、杏珠さんは手元のシュークリームを片手でつかみ、こっちに差し出した。たじろぎつつ、それを私が受け取るや否や、逆の手でマスクを剥ぎ、ミルフィーユを手に取り乱暴にかぶりついた。さっくりとしたパイ生地が辺りに舞い、床に落ちていく。突然の出来事に呆然とした。杏珠さんはお構いなしに手のひらで口をふく。クリームが頬に豪快な線を描く。それでも、お構いなしに言う。
「恋愛なんてね、ペラペラ他人に話せるほうが、バカらしいわ!」
 次はアップルパイに手を伸ばしている。我にかえり、慌てて杏珠さんの仕事着の袖を引っ張る。売り場から厨房は見えない作りになっているけど、もし佐々木さんが入ってきたらこの状況は説明し難い。さっきのステンレスラックの裏に避難する。
「大丈夫です?杏珠さ」
「ごめんちょっとこっちの話だから」
 近くのペーパータオルを抜き、口元を拭く。杏珠さんのマスクをとった顔は小さい。その中の意志の強そうな唇は止まらない。
「神田さん、付き合う二人の問題には誰も入れないの。別れてもそう、あとから外野がなんと言おうと、そんなの放っておけばいいの。話したところで人のことに関しては、他人は同意しても最後には正論しか言わないんだから。聞く耳持たなくていいよ。だって一括りにできないじゃない、人の想いは、恋愛に限らず。別れたって、周りが元彼のことをなんて言ったって、神田さんにとって好きな人ならそれでいいの。傷つこうが、泣こうが、それはあなたの勝手なの。他人の入れない領域なの。話を聞いて欲しいだけなら私聞くから。話しておいて傷つくくらいなら、他には言わない。自分の中で秘めておかなきゃ」
 目頭がどんどん熱くなっていく。体が強張って、手の中のシュークリームを握りつぶしてしまいそうになる。同じように杏珠さんも熱を帯びているのか、鼻の頭が赤くなっている。その言い分がどんなに間違っていたとしても、誰かに否定されたとしても、今、私が私以外に言ってもらいたかった言葉を噛み締めた。しのくんのことを間接的にでも、だめじゃないよ、って本気で言ってほしかった。嘘でもいい、私の見ていないところで嘲笑ってもいい、目の前で肯定してほしかった。
 ペーパータオルを渡され、目を押さえた。瞼に硬い紙質があたって痛い。痛くても、大抵のことはマシだ。あの日よりかは、ずっとマシ。
「はぁ、ごめん。泣かすつもりじゃなかったのに。私も泣いてる」
 杏珠さんは器用にそれで鼻をかんでマスクをつけ直した。ケーキ、ケーキ、保冷剤、と言いながら作業台に戻っていく。時計はもうすぐ17時で、佐々木さんの退勤が迫っている。社会人って大変だな、と変なところで思い、荒くなった呼吸を整えて私もその場を後にした。そこで「ミルフィーユ一個だったの。ごめん」としょげる杏珠さんを見て、そんないいです、と言いかけてやめた。代わりに「食べたかったな」と言ったら、一瞬はっとされ「言うじゃん」と悪戯な顔で返された。
 二人で後片付けをしながら、ありがとうございました、と伝えた。別れた日から一番、晴れ晴れした気持ちだった。
 杏珠さんはまた手を止めて首を振った。まだ開いたまま箱の中にあるケーキを見て上がった口角は、何か言おうとしている。今度は私が視線を送る側だった。
「ごめん」
「いや謝るなら私の方で」
「ううん、ちょっと付き合わせた。神田さんを利用して、言いたいこと言ったんだ」
 箱に入っているのは、先ほどの難を逃れた苺のタルトとショートケーキ、モンブラン。
「人に言えない恋愛、私しててさ、それ突っ込まれた気がしてムキになった」
 アップルパイは断った。だから、箱の外で茶色い表面をてらてらと光らせている。乱れることなく、美しく編まれたそのパイ生地。杏珠さんが材料を量り、捏ねて重ねて、編んで、焼いて、ナパージュを塗って、カットした作品。

「私不倫、してるんだよね」

 断面から甘煮にされたりんごがのぞいている。
 シナモンがたっぷりまぶされたそれを、そういえばまだ食べたことがない。
   私の知らないりんごが、見える。

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