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精神科 救急急性期病棟への入院 #1

はじめに

以下の内容には一部に自殺や自傷行為等の記述が含まれていますので閲覧の際にはご注意下さい。




2022年の春に自殺を試み、精神科の専門病院に入院しました。この病院には1年半ほど通院していたのですが、2021年の秋頃から徐々に調子が悪くなり、自発的に通院をやめてしまっていました

自殺に至る経緯については自己紹介 -わたしのこと-をお読みいただければと思います。


つなぎとめていたもの

どこか遠いところへ行ってしまいたい、この世界からいなくなりたい、消えたい、そう思うようになったのは幼少期のことです。具体的に「死」というものを考えるようになったのは20代の頃ですが、死にたいというよりは「消えたい」という思いの方が強かったように思います。

じぶんはなにもの?でも綴っていますが、この世界から消えるという選択肢を選ばなかったのは祖母の存在がとても大きいです。仕事ができず家にいる私を、ずっとあたたかく見守ってくれて、世界で唯一私の味方になってくれる最愛の人。その祖母を残してこの世界から消えるという選択肢は絶対にありえない。そう思って、どんなにつらい時でも、我慢をして、なんとか踏み止まって生きてきました。

30歳を過ぎた頃、人並みに結婚することが出来て、祖母が元気なうちに結婚式を挙げることもできました。私の結婚を、世界中で誰よりも喜んでくれたのは祖母だったと思います。結婚後、私が東北で暮らすことになり、祖母とは遠く離れてしまいましたが、定期的に上京し、子供が生まれてからは子供も連れて何度も遊びに行きました。

でも、会うたびに、いつも別れるのがつらくて。
でもまたすぐに会えるからって。

最愛の人との別れ

今から10年ほど前のある日、祖母が亡くなったと連絡がありました。

90歳を過ぎても一人で買い物へ行き、
少し前までは電話で元気な声を聴いていたのに。
あまりにも突然で、あんなに元気だった祖母がどうして。

私は葬儀にも出席することが出来ず、
しばらくは抜け殻のような日々を過ごしていました。

49日の法要の際には上京し、祖母のお墓に手を合わせましたが、今でも思い出すのがつらい時期でもあります。

すべてを失い なにもない世界へ

そこからはまるで、階段から転がり落ちるよう。
離婚をし、家族を失い、コロナで仕事も失いました。

どうしてこんなことになったんだろう。
もう、呼吸をする気力も残っていません。

一時はそれでもなんとか生きていましたが、
そう長くは続きませんでした。

笑うこともなく、
泣くこともない。
毎日が絶望で、
次の日もそれはかわらない。

もう限界。
もう無理。

2022年5月、頓服で処方されていた薬を全部(250~300錠ほど)飲み、部屋のドアノブで首を吊りました。息が出来ずに苦しくて、何度か途中でやめて、気を落ち着かせて、再度試みる。

やっぱり無理。
苦しくてこんなの無理。
でも、やらなきゃ。

薬も飲んでいるので、ここまできたら途中でやめるという選択肢はありません。

3回目ぐらいで目の前が真っ暗になり、気が付いたら床に寝ていました。ここからは記憶が曖昧で断片的にしか覚えていません。

なんだかフワフワしていて、
ここは夢の中?
体を動かすことが出来ず、
何も音が聞こえない。

ぐるぐるとまわる世界。

きっと、私は死んだんだろう。
よかった。
すごく安心しました。

まどろみの中で

どのくらい時間が過ぎたのかわかりませんが、玄関のチャイムが鳴り、ドアホンのモニターを見上げると誰かが立っています。まだフラフラで動けず、這うように玄関へ行くと、誰かが私を車に乗せました。

着いた場所は警察署でした。テレビのドラマに出てくる取調室のような部屋に私は居て、なぜかベッドが置いてあってそこに寝かされました。おそらく聞き取りのようなことがあったのだと思いますが、何を話したのか覚えていません。目の前がフワフワして、なんだかすごく寒くて、ずっと毛布にくるまっていました。

それからどれぐらい時間がたったのかわかりませんが、また車に乗せられました。なんとか自力で歩けるようになっていましたが、まだ世界はフワフワで、トランポリンの上を歩いているような感覚です。なんだか見覚えのある場所だなと思っていたら、そこは市役所でした。

その日の夕方頃、市役所の方2名に付き添われ、車で病院へ。私には親族と呼べる人がいないので、医療保護入院の第3項(市町村長同意)による医療保護入院でした。入院時に諸々の手続きがあり、数種類の書類に署名しているんですが、自分で書いたことを全く覚えていません。

入院前に血圧を測ったり、体に異常がないかの検査を受けたことは覚えています。体のあちらこちらに紫色のあざや切り傷、擦り傷がたくさんありました。どうしてこんなに怪我をしているか自分でもさっぱりわかりません。応急手当が終わり、看護師さんに付き添われながら、救急急性期病棟へ。

私はまだ生きてるんだ。
この時にわかりました。

意識がはっきりして、記憶が残っているのは入院から2~3日後のことです。覚えているのは、部屋に入って下着以外の服を全部脱ぐように言われ、病院のパジャマのような服に着替えたこと。眼鏡を取り上げられたこと。そのぐらいしか覚えていません。

この世の果てにもどる

入院して2週間を経過した頃、市役所の保健師さんが面会に来てくれました。そこで入院までの経緯を聞かされました。要約すると、

LINEで「いきづらびっと」という相談窓口に助けを求めた→NPOの方が警察に連絡→地元の警察署から警察官が家に来る→警察署で一時保護→翌日に市役所の福祉課へ→市役所の職員の方に付き添われて病院へ

という流れで入院へ至ったのだそうです。警察から地元の救急病院へ連絡を入れたそうですが、薬を飲んでから時間が経過しているので処置等はできないということで、一晩だけ警察署で保護するということになったそうです。

無意識の中、スマホを操作してメッセージのやり取りをしたこと。その相手が知人などではなく、自殺等の相談窓口だったこと。今考えても、自分の行動が不思議でなりません。おそらくですが、自分が持っている力の全てを使い切ってしまったので、再び自死を試みる余力がもう残っていなかったんだと思います。

もしかしたら、今は天国にいる大好きな祖母が助けてくれたのかもしれません。

おばあちゃん、ごめんね。
ほんとうにごめんなさい。
そうするしかなかったんだ。
ごめんなさい。


警察につないでくれた「いきづらびっと」の方、警察の方、市役所の皆さん、病院のスタッフの皆さん。本当にありがとうございます。

今日、こうしてNoteに綴ることができているのは皆さんのおかげです。


こうして3か月の入院生活が始まります。

入院形態:医療保護入院 第3項
入院時の病名:うつ病
症状:希死念慮、抑うつ気分、不安、不眠等
推定される入院期間:3か月
※入院計画書より抜粋


最後まで読んでいただきありがとうございます。
次回へ続きます。


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