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それぞれの匂い

どこかの小説でもあるまいに、と思われてしまいそうですが、人には誰しもその人なりの "匂い" が存在します。
香水のように、顔を合わせて口をきく前から、その人について雄弁に語る "何か" です。

雰囲気、あるいはオーラと言い換えて良いかもしれませんが、それより色濃く、その人の全存在について裏まで語る感じ、とでも言えるでしょうか。


あの人はどこか危ない匂いがする、と感じる人に街なかで行き合うことがありますし、今度の取引先は、どうにもうさんくさい匂いがする、ということも。

嘘つきっぽい、変人みたい、面倒臭そう、意地が悪そうなど、人に対して感じる匂いがネガティブなものに傾きがちなのは、私たちもまた、動物だからかもしれません。危険に対する臭覚が一番に働くことは、生存の上で最も大切なことですから。


この感覚が鈍ると、厄介なことにもなります。
多少の損をこうむるくらいであるならまだしも、心身が傷ついたり、こちらをとことん利用しようと企む相手を近づけてしまうかもしれません。

香水にもまして分析不可能な、この匂いの感覚は、論理的に言葉にできずとも、他の何より頼りになるものです。

たとえ相手がどれほど素敵な笑みを浮かべ、声色も美しく、心をくすぐる甘言をささやいてくれたとしても、何か不穏な匂いが漂って消えないならば、礼を欠いてもすぐさまその場を去るべきです。

ひどい交際相手、親しげな顔をした狡猾な友人、口の上手い知人などから散々な目に合わされた人たちは、ほとんど皆、口を揃えて言うからです。
「悪い人には思えなかった。でも冷静に考えると、最初からどこかおかしい感じはした」


私はこの、匂いに対する感覚がかなり敏感なタイプです。それは、私が怖がりだからかもしれません。

どのくらいまで踏み込んでも良い相手か、そもそも近づきになるべきか、当たり前の善意を持った人か。
こんなところを間違いなく判断しようとする時、私がまず材料として採用するのは匂いです。

これは少々うがちすぎでは、との考えで匂いの印象を無視したために、痛い目に遭う、思わぬピンチに狼狽する、ということも経験し、何よりある人の匂いに触れたことをきっかけに、この感覚を決して疑いません。


それは私がまだ高校生の頃の話で、一時、小さな食料品店のお手伝いに通っていたことがありました。

そこはスーパーとデリカッセンを合わせたような個人商店であり、店内のカウンターの一角で、お客様の注文品を袋詰めしてお渡しする、というのが私の主な役割でした。
立て込んでいない時は店内の誰彼となく雑談したり、棚の間をぶらぶら歩いているという、なんとも気楽な手伝いです。


ある冬の日、そのお店に初めて見かける男性客がやって来ました。
暗い色のコートにパンツにスニーカーと、ごくありふれた格好でしたが、その人が入ってくるなり、なぜか目が離せなくなりました。
やや乱れた髪以外、特にどうということのない人なのにです。

その人の一体何が、それほどまでに注意を引いたかというと、匂いです。よそでは決して接したことのない、形容しがたい、不可思議な匂いがその人にはあったのです。


その人は幾種類かのお弁当の中から最も大きなものを選ぶと、レジカウンターへ音もなく近づいて来て、支払いを済ませました。

私はそのお弁当を袋に詰めたのですが、容器があまりに大きいために、店にある最も大きな持ち帰り袋でも、持ち手にほとんど余裕がありません。
それを詫びる私の言葉にも上の空の様子のまま、男性は店を後にしました。

俯きがちに、誰とも目を合わせずに。


その人について、レジカウンターの店員さんに話しかけようとした途端、ある名前が上がりました。
自身の劇団を持ち、戯曲に小説、エッセイ、人生相談と、幾つもの仕事をこなす、誰もが知る作家の名です。

たった今お店を出た男性が、まさにその人だというのです。


そんな人が何故こんなところに、と驚く私に、店員さんは口調に冷たいものを滲ませて答えました。
「劇団の稽古場があるからだよ、すぐそこに。近所の人は、みんな迷惑がってるけど」
「どうしてですか?」
「うるさいから。それに、あの人どう見てもアルコール中毒で、昼間から近所を徘徊して気味悪がられてる」


その店員さんは、お店からほど近いマンションに住み、近辺のことを知り抜いています。
そんな人の意見に、余所者の私が反論できるはずもありません。

あの人は立派な作家で、カリスマ的な人気があって……などと述べたところで、現に生活のレベルで不興を買っているなら、単なる戯れ言にすぎないでしょう。


その一方で、私が自分の感覚の正しさに確信を深めたのも事実です。
相手が誰かも知らないながら、強烈な何かを確かに感じ取り、外さなかったからです。

まだ高校生の私には想像もつかないような、空恐ろしい経験を重ねたことを公言し、突飛な人物に取り巻かれ、数多くの逸話に彩られたその人は、やはり只者ではない匂いがしました。
それは、何か安易に近づくことのできない世界を生きてきた人の匂いです。

後にも先にも、あんな匂いを身辺に漂わせた人に会ったことはありません。
それだけに、数分にも満たないごく短い邂逅ながら、今でも記憶に鮮烈に残っています。


かく言う私も、きっと何らかの匂いをまとい、周囲にそれなりの印象を与えているはずです。
自分では決して感知できないその匂いがどんなものか、知りたいようなそうではないような。

いつか、いかにも優雅でたおやかな人、という匂いを身につけられれば最高なのですが。






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