「四文字言葉!」
先日まで新聞に連載されていた友禅作家の聞き書きに、ちょっと目を引くエピソードがありました。
日本で国際会議が開催された時のこと。来日したフランスのマクロン大統領が、作家の工房を訪れました。
友禅の世界に魅せられた大統領はかなりの時間をそこで過ごし、去り際にこう述べたそうです。
「ありがとうございました。芸術と人生のレッスンを受けたようでした」
いかにもフランス的な言い回しであり、同時に、大統領の知性と人間性を感じさせます。
"決して口にしてはいけない言葉"を公衆の面前で口走り、集中砲火を浴びた過去を持つとは信じられないほどの。
それは取材記者の挑発に苛立つあまりの暴言でしたが、まともな社会人、ましてや大統領の地位にある人が、公の場で口にすべきではない言葉でした。
その件はフランス国民に衝撃を与え、罷免になることこそなかったものの、大統領の人望が大きく損なわれたのは事実です。
いわゆる禁句の中には時と場合により胸のすくようなものも存在しますが、愕然とさせられる誹謗中傷、自他を容易に傷つける武具のようなものもあり、取り扱いには注意を要します。
とはいえ日本語は、悪口に関してならばまるで良家の子女の言葉遣いのごとく上品です。
外国のその種の言葉のバリエーションと辛辣さは日本の比でなく、ある言語学者の説によれば、世界で最も悪態の種類が豊富なのはロシア語だといいます。
確かに私が読んだロシア文学にも、息をするように罵詈雑言を吐くキャラクターが珍しくもなかったような。
けれどもそれらは日本語に翻訳されると、言葉の大意はともかくとして、本質的なところが落ちてしまっている気がします。
私の知るロシア語といえば、簡単なあいさつ、子犬、水、牛乳といった単語、「あなたの切符です」「私はケーキが好きです」などの定型文に限られるため、凝った悪口のニュアンスなど、とても原文で理解できるはずもないのが残念です。
それよりは、独学といえどフランス語の方がまだましです。
フランスも相当に口達者な文化であり、私の知る限りでも、様々な悪態の言い回しが存在します。
ここで書くのも憚られるものは除外して、それほど下品ではなく、しかも悪口界の横綱クラスの言葉をあげるならば〈 ridicule〉で決まりでしょう。
フランス革命前の世界を描いた同名のフランス映画『リディキュール』では、この言葉をぶつけられた人が自殺をする、という件までありました。
日本語にどうにか翻訳したいのですが、あいにく対応する言葉は見つかりません。
それは〈木漏れ日〉や〈そわそわ〉などの言葉を、他のどの言語にも訳せないのと似ています。
「木漏れ日っていうのはね、木があるとして。その木には適度に葉っぱがついていて、天気の良い日に、太陽の光が葉っぱの隙間から差し込んだり、光ったりするのを言うんだけど……でも、その情景だけじゃなく、それを木の下から見上げる穏やかな時間とか、心持ちも込められているっていうか……」
などと文字数を費やし説明を試みても、しょせんは概要の解説でしかなく、そこに存在する感覚、言葉の喚起するイメージやその手触りは、日本語話者でないと理解できないのと同じです。
それを承知で言うならば、ridiculeとは"滑稽、馬鹿げた、嘲笑すべき"というような意味であり、フランス人にとっては耐えられない悪口です。
これも日本語では正確な意味を取るのが難しい〈esprit〉の対極にも当たります。
espritがあえて言うと"才能、機知"のような意味であるなら、ridiculeはいちじるしくespritを欠いた状態です。
数年前、フランス南部で男子高校生が同級生に向かって銃を乱射するという事件が起こり、その原因は彼が皆からridiculeだと除け者、笑い者にされていたことにありました。
さほどに"これを言われたら終わり"という悪口は日本語には無い気がしますが、言葉の持つ呪力の恐ろしさを感じます。
それよりは、これも決してほめられたことではないにせよ、こっそりと軽い悪態をつく方が穏当です。
たとえば、アメリカ映画やドラマなどでしょっちゅう吐かれる、有名な"ᖴで始まる言葉"
フランスにもそれに相当する単語があり、こちらはMで始まります。
忘れ物をした、電車に乗り遅れた、調味料をぶちまけた、というような時に誰もが使う言葉でありつつ、人前で大っぴらに口にするのはやはりお薦めできません。
それでもあまりに感情が昂ぶって、どうにも悪態をつかずにいられない、そんな時はどうするか。
ひとつの解決法は、こんな風に叫ぶことです。
「四文字言葉!」
直接に"Mワード"を発するのは控えたい、でも気持ちは表明したい、そんな事情から生まれた表現であり、私はこれがなかなか好きです。
なんだかユーモラスで、怒り心頭の場面でも感情に呑まれずやり過ごせそうな上、どの国の悪口にも不思議と四文字の言葉が多いのです。
なのでその四文字には、自分の好みの言葉を当てはめられます。
普通に不機嫌を撒き散らしたり愚痴を言うより、こちらなら笑って許してもらえそうでもあります。
どうにも腹に据えかねることや不満に対し、我慢強いことは美徳です。
けれど時には遠慮なく悪口を言い、ガス抜きをして、思うに任せぬ日々を乗り切るのもまたひとつの賢さではないでしょうか。
では、"むかつくあれこれ"を思い浮かべつつ、ご一緒に。
「四文字言葉!」