髄液の味覚やいかに
「自分の身体のことは自分が一番よく知っている」
よく使われるフレーズであり、特に違和感もなく受け入れられているのでしょうが、私はいつも首をかしげてしまいます。
なぜなら、私は自分の身体のことなど何も知らないからです。
なぜ人生の始まりから15年間も、原因不明の病に苦しめられたのか。そしてそれが消えたのか。いくつものアレルギーが、気まぐれに出たり出なかったりするのはなぜか。
考えてもわからないことだらけです。
自分はこの身体の"主人"などでなく"同居人"に過ぎない、というのが私の認識のため、知らない、わからないことばかりなのは当然ではあるのですが。
ルームシェアをしている相手の、日々の生活習慣や趣味を知ってはいても、誰にも言えない辛い記憶を抱えているとか、人と共有できない癖があるとか、そんな事情まで知るはずもないのと同じです。
病気の時など、謎の同居人たる身体は理不尽にこちらを振り回し、どんな暴虐にも致し方なく耐えるしかありません。
けれどもこの同居人は、普段は健気でとても優しく、こちらがお礼も言わずこき使っても、休まず働き、黙って裏方に徹してくれます。
虐待に近いような食習慣や生活習慣を送りつつ、もっとちゃんと動いてくれないと困る、などと責め立てても、ぎりぎりまで我慢を重ねます。
そう考えれば、こちらの方がよほどひどい同居人かもしれません。
最近、またしても私はこの同居人についてなんて無知なのだろう、と実感したのが〈脳脊髄液〉という言葉を聞いた時です。
どんな流れだったのか、純喫茶でモーニングを食べつつ、友人が突然そんな単語を口にしたのです。
脳脊髄液。詳しくは知らずとも"脳"や"脊髄"とついているあたり、そこに関連する液体であるのはわかります。
それも、何だか重要そうな感じがします。
ジャーマンソーセージドックを片手に、友人がひどく深刻な顔つきをしているからです。
「血液やリンパ液に効果があるのはわかるんだけど、髄液はどうなのかが気になるんだよ。一番肝心なのはそこだと思う」
この友人は医師であり、専門分野にどっぷり浸かった人にありがちな、皆が自分と同じだけの知識と見識を有しているわけではない、という過ちに陥っています。
「それはもちろん、髄液に対しても同程度の効果の見込みが……」
などと私が返せるとでも思っているのでしょうか。
気になるね。誰か研究してないのかな。論文が上がってたりするかも。調べてみる。
こんな具合にとりあえず髄液の話は終わったものの、私がひとつ疑問に思ったことがあります。
非常に馬鹿馬鹿しく、書くのも恥ずかしいことながら、髄液はどんな味がするのか、ということです。
いささか変態的ですが、本気で気になるのだから仕方ありません。
たった今、身体にとってきわめて重要らしい髄液という液体の存在を知り、それが自分の体内にも流れていると知れば、がぜん興味も湧いてくるというものです。
いや、そこからいきなり"味が知りたい"は異常だよ、と突っ込まれれば反論の余地なしですが、どうしてもそれがどんなだか気がかりです。
実際に、もう少しで
「ねえ、髄液の味って知ってる?」
などと友人にも尋ねるところでしたが、食事中にグロテスクだろうか、とどうにか思い留まりました。
けれど、よく考えてみるとこの人は、手術の記録映像を見ながら肉料理を食べられるような人のため、やはり聞けば良かったのかもしれません。
この上は自分で探る他はなく、帰宅後に医学系のウェブサイトをいくつか覗き、髄液について調べてみます。
結果"脳脊髄液は頭蓋骨から背骨を通って仙骨を覆う硬膜の中を流れる、生存の要である"と知り、脳を守り、内臓や筋肉や神経に栄養を与え、老廃物を回収し、脊髄の新陳代謝を行い、ともの凄い役割をこなしていることに驚きます。
その循環が滞ると自律神経の乱れと心身の不調につながるともいい、これは友人が血液やリンパ液と共に気にするわけだ、と今さらながら納得です。
それなのに私は、味がどうこうなどと気楽もいいところですが、やはり、一度気になりだすとどうしようもありません。
なにも髄液を飲みたいとか、舐めたいというのではなく、どんな味かだけが無性に知りたいのです。
こんな時は文明の利器に頼るべく、味について色々と検索をしてみたのですが、当然ながらどこにもそんな記述はありません。
こうなったらAIに聞くしかない、と問いを投げかけると、思いもよらない答えが返ってきました。かいつまんで書くとこんな感じの。
「人の生命に関わることのため、そのような質問は不適切です。もしも脳脊髄液が漏れ出すようなことがあれば、即座に医療機関の受診の必要があります」
何と、AIに叱られるという結果になり、さすがに少し落ち込みました。
愚かな人間よりも高い倫理観を持つAI。こんな具合では人類が滅亡する日も近いかも、などと余計な心配も頭をよぎります。
それでも気になる、という馬鹿げた探究心を理解してくれるのは、荒木飛呂彦の生み出した奇才漫画家 岸辺露伴くらいかもしれません。露伴先生なら、たとえば戦闘シーンを描き、負傷のため髄液が漏れ出す設定の際、必ずやその色や粘り気、口の中に広がる味まで確かめようとするに違いありません。
あるいはジャン・ジュネ。人間の生理現象の際どい部分までも躊躇なく作中に記した
"アンファン・テリブル"たるジュネなら、必ずや興味を持つでしょう。
もしかすると『泥棒日記』あたりに、他の体液の描写だけでなく、髄液についても触れた箇所があるかもしれません。
などと、しつこくこんな話を続けていると、またもやAIに叱られ軽蔑される恐れがあります。
それも人間としてみっともないことですし、味覚の探究はあきらめて、今日も黙々と活躍してくれる髄液に感謝の念を捧げつつ、さっさと眠るのが良さそうです。
髄液の循環の正常化には、睡眠に勝るものはないといいます。
それくらいなら、私もこの未知の同居人のため、少しは助けになれるでしょうから。