見出し画像

眼の中に散る色「蜜柑」

世の中に長大な物語は多々ありますが(『源氏物語』『チボー家の人々』『アラビアンナイト』『失われた時を求めて』)その逆に、小さな物語というものも存在します。

そもそも、作品の長短とその出来に関連はなく、どちらにも別の面白さと強みがあります。

短かいものに関して言うなら、その第一は、気軽に物語の世界に触れられる、という点でしょう。

とはいえ小さな物語を紡ぎ出すのはかえって困難なことらしく、古今東西の多くの作家の悩むところであるとも耳にします。


そして、日本で短編小説の名手といえば、私なら真っ先に芥川龍之介の名を挙げます。

35歳の若さで亡くなるまでの13年間に、400作あまりの作品を発表するという多作ぶりで、そのほとんどが短編小説でした。

日本の古典作品や海外文学の翻案、オリジナルなど様々なものがあり、私も教科書で出会って以来、多くの作品を読んできた気がします。


「ぼくのかわいい文ちゃん」(後に妻になる塚本文)に宛てた手紙や随筆なども含め、触れたいものは数限りなくあるのですが、ここでは

蜜柑
芥川龍之介 1919年

という、ごく短い物語のお話をしたいと思います。

以前、台湾の映画監督ホウ・シャオシェンが「精神的に疲れた時は、小津安二郎監督の作品を観る」と話したインタビューがありましたが、それにならうなら、気分の落ち込みを感じた時、私が手に取るのは『蜜柑』です。


芥川らしい作品で、とりわけ大きな事件などは起こりません。

汽車の中で、一人の男性がちょっとした光景を目撃するというだけのもので、描かれているのは、駅を出た汽車がとある集落を通るまでの情景です。

主人公の男性はあらゆる物事に倦みきっており、すぐ近くの席に掛ける娘に対しても「下品で、不潔で、愚鈍」と内心散々に腐します。

そのうえ娘はトンネルを走行中に窓を全開にし、石炭の煙で客車を一杯にする始末。

声を荒げる間もなく汽車が踏切に差し掛かると、主人公の目に、居並ぶ少年たちの姿が飛び込んで来ます。

彼らは汽車に向かって懸命に何かを叫んでおり、驚いたことに娘も窓から身を乗り出して、車外に何やらばら撒くような仕草をします。

それは「暖かな日の色に染まっている蜜柑」で、その色彩は踊るように宙を舞い、少年たちの上に降り注ぎます。

ほんのわずかの間の出来事は過ぎてしまえば嘘のようで、あとは娘も膝の上で切符を握りしめて、沈黙を守るばかりです。


そんな娘を見つめつつ、主人公の男性が感じていたものが何だったのか、私にもわかる気がします。

私も同じ汽車に乗り、彼の隣に腰掛けて、娘の手からほとばしった蜜柑の色を、息を呑んで見つめたように思うからです。

作中では主人公の推察で、大きな風呂敷袋を提げた娘はこれから奉公先に向かうところで、踏切まで見送り来た弟たちに、蜜柑を与えその労に報いたのだ、とされています。

主人公の言う通りであるならば、私もまた「別人を見るようにあの小娘を注視し」つつ、これからの日々が安穏であるように、そしてその小さな弟たちも、散らばった蜜柑を拾い集め、大切に一房一房を味わいながら、涙などこぼしたりしないようにと願うのです。


私がこの短編を初めて読んだ小学生の頃は弟たちに、今は姉弟を眺める疲れた主人公の側の年齢です。

けれど、どの登場人物の立場からでも、この小さな物語の持つ、切なく寂しい美しさは変わることがありません。

だからこそ、この主人公のごとくどこか憂鬱で心が晴れない時、私は幾度となく、あの汽車の窓から放たれる、光に似た色を見たいと思うのです。

それが自分の心をも満たし、言葉にならない励ましを与えてくれるように思うので。


それでは、また次のお話でお会いいたしましょう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?