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沈黙か雄弁か

「よく言うだろう?
沈黙“を”守るって。
逆だよ。
本当は沈黙“が”人を守るんだ」

──『汚れた血』レオス・カラックス


終わりよければすべてよし。
この結末に至るまでの、苦難すべてが報われる時がやってきました。

祭壇の前で新郎新婦の手を取り、神父が人々に語りかけます。

「ここに二人は結ばれるものとする。この結婚に異議のある者は、直ちにこの場で申し出よ。さもなくば永遠に口を閉じよ」

会衆は好意に満ちた笑みと沈黙で応じ、誰はばかることない真実の愛が成就する…こんな場面に、幾度となく出会った気がします。
シェイクスピア劇で、ヴィクトリア時代の“結婚小説”で、ハリウッド映画のラストシーンで。


そのたびに私がうっとりしてしまうのは、大団円のカタルシスだけでなく、神父さまはさすがに深いことおっしゃる、という点においてです。
ここには、心を健やかに保つ秘訣があります。

オール・オア・ナッシング。
いま直接、不満を表明しないのであれば、どのような場でも二度と言うな。
これは、深い人生訓だと思います。


なぜなら私たちはたいがい、これとは逆のことを行うからです。
言うべき時に必要なことを言いそびれ、後になって不満を口にする。

そんなことはない、自分はいつ何時でも、誰に対しても率直に話せる。
そんな風に言い切れる人は素晴らしく、その勇気や誠実さをまぶしく見つめますが、私はもう少しありきたりな人間です。
ちょっとした不満があったり嫌な思いをしても、その都度それを表明できるとは言えません。

本当はまずいとわかっていても、もやもやするだけで上手く言葉にならなかったり、今は言うべきタイミングではないと考えてしまったり。
ここで怒ると何もかもぶち壊しになるからと口を閉ざし、後になって悔しい思いにとらわれることがあるのです。


私の友人の一人はそんな態度を良しとせず、少しでも何か引っかかりを感じれば即座に相手に問い正し、気が済むまで議論をやめません。
それは勇敢でありつつリスクも多いやり方で、相手に煙たがられたり怖がられたり、時には関係そのものが危うくもなり得ます。

けれど友人はそれを全く恐れておらず、その程度で壊れる関係ならば所詮それまで、切れる仕事ならそれで結構、と考えます。
言いたいことを溜めてまでつなげる関係はストレスと問題を生み、本音を言えない関係は自分には必要がないのだとも。


こんな強さと覚悟があればとは願いますが、なかなかそうはいかないからこそ、小さな悩みは尽きません。

何かあっても、あまりに騒ぎ立てるのもと思ってしまう、という日本人的な嘆きの声は周囲でも耳にしますし、皆それぞれに苦労しているようです。

それが行き過ぎて対人関係の我慢を重ねたあまり、無関係の人の前で延々と恨みをぶちまけ、すっかり皆から敬遠されてしまった、という気の毒な人も知っています。


誰かの後悔や愚痴に喜んでつき合いたい人がいるはずもなく、それでも自分の鬱憤をぶつけ続けていれば、やがて周囲から人が消えるのは明らかです。

それくらいなら、無理に自分を抑えることなく心の内を素直に口にすべきでしょうが、逆の道を選んだのなら、その結果は自分で抱え持つしかありません。
神父さまの言葉「今言うか、永遠に口を閉ざすか」です。


どちらを選択するにせよ、それは“忖度”や“空気”による決定ではないことも重要で、自らの意思で決定したのでない限りほとんど意味はありません。

口を開くにも閉ざすにも、その時々で最適解があり、どちらが正解かの答えは動きます。
常に態度が一貫している必要はなく、きっぱりとものを言うから偉いのでも、黙って呑み込むから大人でもない。

おそらくどちらにも優劣はなく、的確に一方を選び切れることこそが大切です。


なぜこんな話を長々と書くかというと、昨日今日、私は何度かこの二択にぶつかったからです。
言うべきか、言わざるべきか。

その際の自分の選択と結果には満足ですし、後になって思い悩むことなく、気分の良さだけを感じています。

それというのも、割り切った簡単な方法を取ったからです。
後で文句や愚痴を言いたくならない?と心の内で自分に問いかけ、自分の取るべき態度を決める。
それだけです。


これは許容範囲の問題であり、これくらいなら大丈夫、そう思えば流せばいいし、これは認められないし許せない、後々きっと傷になる、そうならば声に出せばいいだけです。

自分の感覚に敏感になり、率直に従うこと。
それは困難に思えますが、繰り返すうち習熟していくもののひとつです。
そういった些細なことは、大局的には自分自身を大切にすることにもつながります。

どうぞ、どんな時も、ご自分の感覚を軽んじることなく判断なさいますように。






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