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これも立派な依存症?

「私の夫を返してください」
腕組みをしたマダムの冷ややかな声。

無言で静かに微笑む男性たち。

一体どんな状況か、もしや何らかの犯罪がらみかと思いきや、その背後では賑やかな話し声が飛び交い、互いに手にした本を見せ合う人、じっと手元を見つめる人、笑って数字を口にし合う人など様々です。

その場にいるのはほとんどがイギリス人で、日本人とおぼしき人は、さきほどからマダムに詰め寄られている男性二人だけ。
実はお二人は世界的な有名人で、この場のスペシャルゲストです。


海外でも〈Sudoku〉と日本語のままで通用するパズルゲーム〈数独

その大規模イベントが数年前にイギリスで開催され、世界にこのゲームを広げる立役者となったパズル雑誌『ニコリ』創始者鍜治さんと、数独協会代表理事後藤さんもその場に招待されました。

日本国内はもとより海外でも数独は絶大な人気を誇り、件のマダムの夫も、その魅力に取り憑かれた口なのでしょう。
夫のSudoku熱がいささか行き過ぎたものなのか、マダムはその憤りを“責任者”お二人にぶつけていたというわけです。


やや喜劇チックな状況ですが、私はどちらかと言えばマダムの夫の立場寄りで、数独の魔力をよく知っています。

学生時代のある夏休み、自由時間の全てを数独に注ぎ込んだ思い出があるからです。
すっかり虜になるあまり、朝起きてから眠るまで考えるのは数独を解くことだけ。

家族も呆れ果てて何も言わず、私が我に返ったのは、夏休みも終わって明日から学校だという日の夜のことです。
ふと見ると机の上には何冊もの数独雑誌と、手付かずの夏休みの課題が山積みでした。


それ以来、数独専門誌やアプリには一切手を出さないままです。

今でも数独愛は変わらぬまでも、新聞やどこかの雑誌に掲載された問題を一、二問解くに留め、程よい距離を保つよう努めているというところでしょうか。

ところが、過日すごい人にお会いしました。
それも、大勢の人が行き交う路上においてです。


街角で赤い帽子をかぶり、魅力的な表紙の冊子を掲げる人々。
この人たちはストリート雑誌『ビッグイシュー』の販売員で、この雑誌のファンの私は、最新号を売る人を見かけると、即座にバッグの中で財布を手探りし始めます。

雑誌自体の面白さはもちろんのこと、私にとっての楽しみは、購入の際の販売員さんとのやり取りです。
ビッグイシューの販売員さんは自立を求めて働くホームレスの人々で、寡黙な人、ホテルマンのように丁寧な人、陽気な人など、皆それぞれに個性的です。


「国家資格を持ち、上場企業に勤めていたのに人間関係で病んでしまった」
「ギャンブルでお金も職も家族も失い、気づけば他府県にいた」
「株で失敗して一文無しになったけれど、これでも一時は羽振りが良かった。もう決してやらないけれど、もし今買うならばお勧めは…」

これは私が今までに聞かせてもらったお話で、現在の境遇に至った経緯はそれぞれながら、人生の酢いも甘いも噛み分けた人の言葉や視点は、容易には無視できない深みがあります。

この人たちはタクシーの運転手さんに似て、景気や世間の動き、それによって変化する人の心について、心理学者以上に多くを理解しているのかもしれません。


販売員さんがいる場所は固定制で、私もほぼ同じ所に立ち寄るのですが、ある時、ふだん訪れない駅の側で、一人の販売者さんをお見かけしました。

その人が手にしているのは出たばかりの最新号で、その日は私が一番目のお客だそうです。

「おかげさまで、幸先の良いスタートになりました」
そんな嬉しいことをおっしゃりつつ、その人は私に尋ねます。
「パズルはお好きですか?」

大好きですと答えると、小脇に抱えたバインダーから、ホッチキス綴じの冊子が差し出されます。
「数独です。良かったら」
「やった。一番好きなんです」

その人は目を細めてうなずき、これはどこかに掲載されていた問題かという私の問いに、あっさりと答えました。

「私が作りました」

聞いた途端、驚きの声を上げてしまったのは言うまでもありません。

「そんなに大変でもないんですよ。いくつか決まりやコツがあるので、その通りにやれば誰でも」
当人は淡々とおっしゃるものの、私からすれば驚異的な偉業です。

「いいえ。すごい才能ですよ!」
声を大にする私にも、その人は相変わらず微笑むだけでした。


ともかく、頂戴した問題を自宅でさっそく解いてみました。

難易度の如何いかんに関わらず、どうにも人を苛々させる、ひねくれたパズルも一部には存在しますが、それらは取り組みがいある良質な問題ばかりでした。

こんなパズルを作れるなんて、と販売員さんのお顔を思い出しつつ、次にお会いしたらぜひ数独遍歴も聞いてみようと、今からすでに楽しみです。

せっかくこれほど魅力的なパズルが日本から広まったのです。
再び中毒に陥らないよう加減をしつつ、これからも数独の世界で遊ばせてもらえたらと思います。




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